突然、視界が広がった。
焦げた匂いが鼻をつく。
どうやら辺り一面が、焼け爛れているようだった。
木々は、まるで根元から強い力で引きちぎられたようになぎ倒され、
下敷きになった鹿が黒焦げになっている。
地面を覆う下草は、青白い炎を吹き上げていた。
「ひどい……」
炎を避け、岩壁沿いに進むと、岩陰に白いなにかがはためいて見えた。
近づくと、白いドレスの少女が倒れていた。
「しっかり!」
フェリクスは少女の頬を叩き、呼びかけながら、強くゆすぶった。
しかし反応がない。
「くそっ!」
気道を確保し、ドレスの前を開けて、フェリクスは目を見張った。
少女の身体は、胸元から首にかけ、びっしりと包帯に覆われていたのだ。
そればかりではない。
暗闇に目を凝らせば、指先も、腕も、肩も、足も、全て、包帯が巻かれている。
包帯がないのは、青白い顔くらいなものであった。
軟らかな土の上を選んで、少女の身を横たえると、
フェリクスはその胸の上に両手を重ね、力強く押し込んだ。
「頼む、息をしてくれ!」
半時もしただろうか。
フェリクスの額に大粒の汗が噴出した頃、少女は微かに身じぎ、細い声を絞り出した。
「伏せ……て……」
少女の左手が神官服の裾をぎゅっと掴み、フェリクスはハッとした。
その時だった。
上空にあった光が強く輝き出し、あっという間に辺りを呑み込んだ。
「!」
フェリクスは少女をかばって、地面に突っ伏した。
背を丸め、少女を強く抱きしめると同時に、激しい風が恐ろしい唸りをあげ、山を渡った。
「ぐっ!」
強風で舞い上がった枝や土砂が、雨のように地面へと降り注ぐ。
背中に鈍い痛みをいくつも感じながら、フェリクスは必死に身をかがめた。
「大丈夫です。じっとしていてください」
背の痛みを堪え、少女に呼びかける。
気がつくと、腕の中の少女は、じっとフェリクスを見上げていた。
いたずらめいた丸い瞳が、夏の光のようにきらきらと輝く。
「マリー……」
だが、それは消えていく光が見せた幻だった。
腕の中の少女は、硬く目を閉じたままであった。
目の前の彼女は、記憶の中の元気な女の子とは似ても似つかない。
やがて風が止み、光も治まっていった。
強風で雨雲まで消え去ったのか、空には月が姿を見せていた。
「……」
少女の吐息が聞こえた。
まつげが震え、少女が目を開ける。銀の瞳が、まっすぐにフェリクスを見上げた。
フェリクスの裾を握り締めていた少女の手がそっと離れた。
「よかった! 気がついて……」
「……」
少女は無言でフェリクスを見つめ続けた。
フェリクスは背中に積もった土砂を振り落とし、立ち上がった。
少女に手を貸し、先ほどの風で飛んできた岩のひとつに腰掛けさせた。
「私は、<法王庁>の第一級神官フェリクス・フェアランドです。
医学の知識を心得ています。
あなたが呼吸していないように見えたので、手当てをしました。
立てますか?」
少女はフェリクスが差し出した手を取らず、自力で立ち上がった。
真珠色に輝く美しいドレスが、ふわりと広がる。
月明かりに照らされた少女の姿は、白く輝いて見えた。
血色を取り戻してほんのり薔薇色に染まった白い肌、
水晶のかんざしでゆるく結い上げられた豊かな髪は銀。
そして、長いまつげに覆われた瞳は、硝子細工のように澄んでいた。
少女は辺りを見渡すと、ドレスの端を掴み、ゆっくりと歩き出した。
月を見上げ、遥か彼方にかすむ山脈を見つめる。
「歩けるようなら、この道を下ってください。
私の連れの神官イアンシルと、馬車があります。
そこで休んでいてください。
私は村の様子を見て来ますから」
先を急ごうと歩み出したが、フェリクスは進めなかった。
少女の手が、フェリクスの神官服の裾を掴んでいたのだ。
「大丈夫ですよ。神官イアンシルはすぐそこにいます。
私以上に頼れる男です」
少女は怯えている様には見えなかったものの、
フェリクスは出来るだけ優しい声で、安心させるように語りかけた。
「……?」
少女ははじめて表情らしきものを浮かべ、自分の左手を見つめていた。
自分がなぜ、フェリクスの着物の裾を掴んでいるのかわからない。そんな風であった。
裾を掴んだままのその手を、銀の瞳は不思議なものでも見るように、
困惑した表情で見つめ続けている。
「……。そうですね。一度、あなたを馬車までお送りします」
安心させるように言って、少女を伴い、来た道を戻ろうとしたその時だった。
倒れた木々を飛び越えて、一頭の馬が現れた。
「!」
驚いて後ずさると、背がなにかに当たった。
振り向くと、マントをなびかせた者たちが、フェリクスと少女を取り囲んでいた。
(なんだ!? 一体、どこから……!?)
突如、現れたマントの一団を見て、フェリクスは驚いた。
顔まで覆うフードつきのマントは、鮮やかな赤。
皆、帯剣こそしていないが、背には魔石をはめ込んだ杖を背負っている。
そして、その魔石には、金色の竜の紋章がぼんやりと淡い燐光を放ち、浮かんでいる。
「金色の竜!? て――、<帝国軍>!?」
すばやく四方を確認するが、とてもすり抜けられそうにない。
人影は、ざっと数えても十四、五名はいる。
(魔道師の部隊なのか……!?
隙を見つけて、イアンと合流しないと――)
フェリクスは少女の手を握った。
少女を側へと引き寄せ背に庇うと、周囲の者たちに声を張った。
「私は、神々のしもべ、<法王庁>第一級神官フェリクス・フェアランドである。
この地は、<法王庁・教区>である。
<神々>に捧げられたこの地で争いを起こすことは、<講和条約>で禁じられている。
<帝国軍>の諸君! 速やかに道をあけられよ!」
馬に乗った隊長らしき男が進み出て、ふたりの前に立ちはだかった。
「君の主張は理解した――。
現在、この地では異常な魔力が検知されている。
我らはその、調査にやってきたまで。
君たちを安全な場所まで、送り届け……」
「その主張は聞けぬ。ふたりを<客人>とせよ」
隊長のものとは異なる、その冷たい声が響いた途端、辺りは不気味な静けさに覆われた。
魔道師たちも、馬たちも、息を殺しているのがわかった。
少し前まで聞こえてきた木々のざわめきや、土が崩れる音。
そんな自然の音までもが止まっている。
一切の音が消えたようだった。
フェリクスは辺りの様子をうかがった。
その冷たい声は、魔道師たちの中から発せられたものではなさそうだった。
だが、辺りに他に人の気配などない。
(一体、どこから――!?)
完全なる静寂の中で、フェリクスは自分の鼓動が早まっていくのを感じた。
隊長がフェリクスを見据えて、宣言した。
「君は<客人>として、もてなされることになった」
「!」
魔道師たちが、いっせいに杖を構えた。
魔石が怪しく輝き、その切っ先から赤々と燃える炎が噴出す。
炎は蛇のようにしなり、その炎の鎌首がフェリクスの方を向いた。
「逃げろ! 馬車へ走れ!」
炎の蛇が放たれると同時に、フェリクスは少女の手を引き、駆け出した。
だが、背後から迫る炎が、フェリクスの足に巻きつく。
「うっ!」
両足を熱を持った痛みが駆け抜ける。
フェリクスは少女の手を離し、その背を押しながら、地面に倒れ込んだ。
「行け! 走るんだ!」
倒れたところに幾本もの杖が差し込まれた。
取り押さえられ、地面へと押さえつけられる。
「なにをしている! はやく走れ!」
少女は、フェリクスの声など聞こえていないかのように、
遠くの山々を見つめたまま、動こうとしなかった。
「<客人>だ。丁寧に扱え」
魔道師の一人が呪文を唱え、杖をフェリクスの腕に押し当てた。
杖の魔石が赤く輝くと、
杖が細い蛇のようにしなって、フェリクスの両腕に絡みつき、自由を奪った。
そしてフェリクスと少女は、荷馬車に乗せられ、いずこかへと運ばれた。
車窓から見える荒涼とした光景に、フェリクスは目を見張った。
星が落ちた跡は、何もかもがなくなっていた。
円形に抉り取られた大地が、無残な土肌をむき出している。
そこにあったであろうはずの<七つ村>、その家々や田畑、
そんなものはなにひとつ、なかった。
人がそこで暮らしていたという痕跡は、全て消滅していた。
(私の村と同じだ……)
フェリクスは思い出していた。あの夏の夜の流れ星を――。
故郷の、あののどかだった村の風景を――。
フェリクスは、囚われてしまった少女を振り返った。
少女は、驚きのためなのか、この光景を見ても無表情のままであった。
自分の村を失ったという実感がないようだった。
その髪に挿した水晶のかんざしが、静かに光っている。
「一体、ここでなにがあったんです!」
フェリクスは魔道師たちに叫んだ。魔道師たちは答えなかった。
顔は赤いフードの下で陰になっている。その表情は全く読めない。
「私たちを、どうする気です!」
フェリクスは再度叫んだ。
「そんなに嫌がることもなかろう。
君は、<帝国>に来たがっていた。
違うのかね、神官フェリクス・フェアランド君?」
すぐ近くで、あの冷たい声が響いた。
窓から見える魔道師たちは、再び息を殺していた。
馬車の中にはフェリクスと少女しかいない。
「誰です? どこにいるんです? あなたは一体――!?」
「私の名は、ヴァイル・ヴァンゼース・ヴァンダール」
「<帝国>の――<皇帝>!?」
フェリクスはおののいた。
この冷たい声は、恐れ多くも<神々>に逆らい、
全ての<帝国・領地>を神ならざる人間の地であると宣言した、
<帝国・皇帝>そのひとのものなのである。
急に、強い雨が降り始めた。
雨でぬかるむ足場を警戒し、馬はゆっくりと進んでいた。
向かう先は、青々とした山脈の向こう側。<神々>にそむく者たちの領土、<帝国領>――。
終戦後、<連合国>は解体。
<帝国>は、<連合国>の放棄した領地を奪い、世界のおよそ半分を手中に収めた。
<連合>から<帝国>へ。まるでもののように譲渡された村や町は計り知れない。
フェリクスの故郷も、そうした村のひとつだった。
フェリクスは左手にはめた銀の指輪を見つめて、つぶやいた。
(私が、<帝国>へ――!)
強い雨の中、強風にさらわれた馬の首がぼとり転げ落ちて、不気味にいなないていた。
§ § §
――聖暦727年、4月11日。
<法王庁・教皇>より下記の発表があった。
<第一級神官フェリクス・フェアランド>および<第二級神官イアンシル・イェール>は、
<使命>の途中、殉職した。
この知らせをフェリクスが知るのは、さらに後の、これより二ヶ月も先のこととなる。
――<神々>は、千年ごとに光臨し、<神々を信じる人々>に<祝福>を与える。
千年の節目を来年に控えた、聖暦727年の春のことだった。