「<神々>よ――。
どうかマリーが無事でありますように――。そして――」
フェリクスは祈りを捧げていたが、思うように集中できなかった。
(あれほど来たかった<帝国>――。
その<帝国>へ、こうして、入れたというのに……。こんな形でなんて……)
フェリクスは暗がりの中、小窓から入る僅かな光を見上げていた。
ここに連れてこられて以来、その光に祈りを捧げるのがフェリクスの日課となっていた。
そこはカビの臭いの立ち込める、暗く、陰鬱な石の独房であった。
暗がりの中、あの事件から何日がすぎただろうかと、フェリクスは思う。
時折、誰かがやってきて堅いパンの切れ端や、水の入った器を置いていく。
足音がかすかに聞こえると、床の上ぎりぎりにある細長い隙間が音もなく開き、
パンと水が置かれた盆が差し入れられる……といった具合だ。
窓は、今見上げているもの、ひとつだけだった。
天井すれすれに開いた窓は、フェリクスの背の三倍ほども彼方にある。
細長い穴で、子猫すら通れないように思えた。窓というよりは、外気をいれるための空気穴だろう。
だが、この部屋にある明かりといえば、あの遥か彼方に薄く差し込む光のみなのだ。
壁を登って窓から外を見ようにも、壁には石や煉瓦を組んで出来るような継ぎ目の類が一切ない。
それどころか扉すらないのである。まるで巨大な岩をくりぬいて、その中に部屋を作ったようだった。
フェリクスは、<七つ村>で魔道師隊に捕まった時のことを思い起こしていた。
共に囚われたはずのあの、<七つ村>の少女のこともわからなかった。
フェリクスは深いため息をついた。
(あの少女は、どうしているだろうか……)
せめてイアンが待つ所まで走らすことができたなら、少女は助かったかもしれない。
何度も逃げろと叫んだが、少女は呆然と立ち尽くしているばかりだった。
(故郷の全てを一瞬で失ってしまったんだ。無理もない……。
それに、あの少女――全身を包帯で巻いていた。思うように動けないのかもしれない。
ちゃんとした手当てを受けられていれば良いのだが……)
フェリクスは額に掛かる髪を払って、まっすぐに天井を走る白い光の筋を見上げ続けた。
(ああ……。いつまでこんな日が続くのだろうか……)
ため息をついたフェリクスの耳に、かすかな靴音が聞こえた。差し入れの時間だった。
床ぎりぎりに開いた穴から、すうっと盆が押し込まれる。
フェリクスは手早く盆をのけ、床に這いつくばると、腕も通らない細い隙間へ向かって顔を寄せた。
「そこにおられる方……、どうか、お願いです!
私の話を、聞いていただけないでしょうか?」
だが、フェリクスの眼前で隙間は音もなく閉ざされた。
「待ってください! どうか!」
隙間を叩いて呼びかけるが、微かな足音はゆっくり遠ざかっていく。
もう幾度となく試し、無駄だったことだった。いまさら強い落胆など感じはしない。
だが、日々訪れる小さな失望は、この数十日の間、静かに積み重なってフェリクスの心を重く塞いだ。
重い心に引きずられ、体までもが鉛のように感じられる。
だるい腕を無理やり持ち上げて椀をとり、口を寄せ、水をすする。
外の熱気にさらされてきたのか、水は生暖かくどろりとしていて、思わず吐き戻しそうになる。
(だめだ。しっかり食べなければ……)
フェリクスは自分に言い聞かせて、生温い水を一口だけ飲み込んだ。
硬いパンをちぎっては口に運ぶ。一口、また一口……。無限とも思える行為を続けていく。
やがてパンには、歯ごたえもなくなる。それでもフェリクスは何度も何度も噛み締め、
ざらりとしたパンの感触が口の中からすっかりなくなるまで、それを飲み込まずにいた。
(せめて食べることには、集中しなければ。いつでも、動けるようにしておくんだ……)
そう強く自分を叱咤する。いつ来るともわからない交渉の機会、あるいは脱出の機会。
自分から動いてそうした機会を作れないのであれば、訪れるチャンスを最大限に利用できるよう、
備えておきたかった。
だいぶ時間をかけて、パンの半分ほどをたいらげたときだった。
パンをちぎろうとしたフェリクスの指先が、異質なものに触れた。
ゴミでも混ざりこんでいるのだろうかと、フェリクスは思った。
指で探り、それを引っ張り出して、フェリクスの顔色が変わった。
それは、硬く巻かれた<紙片>であったのだ。
フェリクスは耳を澄まし、外に足音がないのを確認すると、急いで<紙片>を開いてみた。
だが、明かりの射さないこの独房では、<紙片>に書かれた細かい文字を判別することなど、
到底不可能であった。
(だめだ。こんな暗がりでは……、とても読むことなど……)
大きな絶望が身体を支配したが、フェリクスは激しく首を振って、その支配を免れようとした。
(いや、あきらめないぞ、私は……。
牢の外には、このメッセージを私に伝えたがっている誰かがいるということなんだ。
外と交渉するチャンスなのかもしれない!
フェリクス、考えるんだ……。どうすれば、この文字を読める……?)
折れ掛かる心に鞭を打ち、フェリクスは天井を見上げた。小さな窓から放たれ、
天井のすれすれを走る、まっすぐな光。太陽がめぐり、その光がどんなに角度を下げてきても、
その光がフェリクスの手の届く範囲を照らし出すことは、けっしてなかった。
(でも、あれが、この閉ざされた空間、唯一の光なんだ……)
フェリクスは、丸まった<紙片>を丁寧に伸ばした。
手のひらの間に<紙片>をはさみ、手のぬくもりを伝えるように、ゆっくりと力を加えていく。
丸まろうとする紙の癖が完全に抜けきるまで、フェリクスはその作業を慎重に繰り返した。
それからフェリクスは、食べ残した半分のパンを木の椀の底で削って、さらさらの粉を作った。
その粉と、独房の隅に溜まった泥、そして生温い水をごく少量混ぜ、よく練り込んでいく。
ペースト状になったそれを、小指の先、半分ほどの大きさに丸める。
平らになった<紙片>の四隅に、丸めたペーストを均等に配置し、貼り付ける。
(よし……、これで……)
フェリクスは再度、独房の外に足音がないことを確認してから、
ペーストを縫った<紙片>を、天井へと高く投げ上げた。
ペーストの重しが<紙片>をまっすぐに伸ばし、<紙片>は平らになってゆっくりと降りてくる。
天井を走る光が、<紙片>を一瞬だけ照らし出す、その僅かな瞬間にフェリクスは目を凝らした。
(一行目は……、数字……。<4>……、<11>……。おそらく日付か……)
落ちてきた<紙片>を受け止め、フェリクスはもう一度、それを天高くへと投げ上げる。
(二行目の頭は……、<神官>……、<F>……、<e>……、<l>……、フェリクス……?)
自分の名前を読み取って、もう一度、<紙片>を投げる。
(二行目の終わりは……、<神官>……、<I>……、<a>……、イアン……、シル……?)
不安を感じながらもフェリクスは<紙片>を投げた。
(三行目は……、<死>……?)
読み取った語句を並べると、フェリクスの背を悪寒が這い上がっていった。
(4月11日……、神官フェリクスと神官イアンシル……、死……)
フェリクスは呆然と、繰り返した。
(死……。
<帝国>に囚われてしまった私が死んだと思われるのはわかる。
だが、まさか、イアンの身に……?)
イアンと別れた時のことが思い起こされる。
<七つ村>への<使命>の途中、フェリクスとイアンは星が落ちた衝撃に巻き込まれた。
(<七つ村>は、あの光のせいで消滅してしまった。
あの辺りには元々、人も寄り付かない。それに、あの夜は雨が降り出していた……。
雨の後、あの崩れた山道を進むことは、きっと困難だったろう。
もし、<法王庁>からの救助も遅れたとしたら……?)
恐ろしい推理に、フェリクスは身震いした。
『すまんがそれが限界だ。それ以上、<帝国>に近づく<使命>は通せなかった』
『お前が<帝国領>での使命にこだわりすぎている事は、問題視されている。
――そろそろ教皇様のお耳にも届くかもしれんぞ』
『……。はっきり言わないとわからんのか。お目付け役としての<使命>、だ』
なんだかんだ言っても、結局最後までフェリクスの世話を焼いてくれた。
彫りの深い精悍な横顔。あの、心の奥底まで見抜いてしまうような、空色の鋭い瞳。
「ああ、イアン! 君は、足を怪我していたのに……!
君を……、君をあの場に、置いていくべきではなかった!」
フェリクスは呻き、まるでそれがイアンの亡骸であるかのように<紙片>をかき抱くと、
強く、強く胸へと押し当てた。