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第二話「帝国」

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【4】

 その日の深夜のことだった。

 与えられた豪華な部屋のベッドの上で、フェリクスは何度めかの寝返りをうった。
雲のように柔らかいベッドが気になって、寝付けない。

 今朝までは<客人>とは名ばかりの、囚人だった身なのである。
環境の変化に、体が追いついていないようだった。

 天井から垂れ下がるきらびやかなシャンデリアをぼんやりと眺めて、
フェリクスは<紙片>を取り出した。


  『4月11日、<法王庁・教皇>は、以下の発表をした。
   <第一級神官フェリクス・フェアランド>と<第二級神官イアンシル・イェール>。
   ふたりの神官は、<使命>の途中殉職した、と。

   貴公を縛る<使命>はもうない――』


 あの石造りの独房の中で、拾い読んだ文字の正確な文章であった。


  (イアンは死んでしまったのだ――)


 フェリクスは心の中、つぶやいた。思い出が溢れて心を塞ぐ。
だが、今の状況がフェリクスに、友の死を悼む時間を許さなかった。
フェリクスは気力を振り絞り、悲しみに止まりがちな思考を推し進めようとした。


  (<法王庁>では、私は死んだことになっている。
   だが、<皇帝>は私をまだ<神官>と思っている。

   <神官>である私が<皇女>の命を救った、だから<法王庁>と歩み寄る。
   そして私の指導の下、<帝国・千年祭>を開催すると……。

   それが<皇帝>の言う、私の<お役目>なのか?

   でも、私が<皇女>を救ったというのもでたらめなんだ……。
   大体、宗教色を廃した<千年祭>などに何の目的があると言うんだ……。

   なにがなんだか、わからない……)


 フェリクスの心は再び、イアンの死へと囚われた。


  (イアン……、すまない……)


 枕に顔をうずめたフェリクスの耳に、静かに扉が開く音がした。
フェリクスは顔を上げた。そこには三人娘のひとり、ローズマリーが立っていた。

 「どうしたんです?」と問う前に、ローズマリーは足早に歩み寄って、
フェリクスの唇に人差し指を押し当た。


  「フェリクス様……。故郷を見たくはありませんか?」

  「!」

§ § §

 ローズマリーは他のふたりを連れず、ひとりきりでフェリクスを案内した。
長い廊下を渡り、館を抜け、広大な<帝国城・庭園>の一角へとふたりは入っていった。


 青々とした蔦が滝のように垂れ下がる高い塀に行き着くと、ローズマリーは蔦のひと房をどけた。
蔦に隠れていた小さな扉が現れる。扉の上には、黄金の竜が浮かび上がっていた。

 胸の合間から金色の鍵を取り出すと、ローズマリーはそれを扉の上へと押し当てた。
竜が自分の尾を追いかけるようにぐるりと回転して消える。
そっと扉を押すと、小さな扉はゆっくりと開いた。


  「ここより先は、おひとりで――。我が<主>がお待ちです」


 どうやらローズマリーの<主>――
すなわち、フェリクスを<客人>として捕らえた<帝国・皇帝>その人が、
フェリクスと密かに接触したがっているらしい。


  (いよいよ、<お役目>の内容がわかるか……。
   <神々>を否定し<法王庁>を嫌う人物だ。ろくなことではないだろうが……)


 軽く息をつき、フェリクスは背中を丸めて小さな扉を潜り抜けた。

§ § §

 一歩踏み込めば、仄かに甘く芳しい香りが鼻から喉へと抜けた。
見渡す限りに、白い大輪の薔薇が咲き誇っている。

 月光が柔らかく照らす薔薇たちは、幾重にも重なる花びらの間に、
白から水色、薄紫にかけての幻想的な陰影を作っていた。

 高く育った薔薇の木陰の下をあてもなく歩いていたフェリクスは、息を呑み立ち止まった。

 音もなく降り積もる白い薔薇の花びらの中、
白いドレスに黒いレースのショールを羽織った少女が立っていた。
下ろしたままの腰までの長い銀髪が、月光にきらきらと輝いている。


  「ようこそ、フェリクス・フェアランド様……」

  「あ、あなたは……!?」


 ゆっくりと振り向いた少女の顔を見て、フェリクスは戦いた。

 硝子細工の銀の瞳。星の輝きを集めたような銀の髪。
美しいが表情の乏しい青白い顔と、包帯を巻いたか細い腕。

 少女はフェリクスの驚きを見ると、小さくうなずいた。


  「そうです。私が<帝国・皇女>、ロズマリンです――」


 目の前にいるのは、紛れもなく<七つ村>で助けたあの少女であった。


  「あなたが――、<皇女>!? ど、どうしてあの時――?」


 だが、何故と問う隙も与えず、<皇女>はフェリクスの手を力強く握った。
包帯を巻きしめたその手のあまりの冷たさに、フェリクスは身震いした。


  「時間がないのです……。
   フェリクス様、私の言うことをよく聞いてください。あなたにお願いしたいことが……」


 真に迫った真剣なまなざしだった。
<皇女>のミルク色の優しい色合いの肌は青ざめ、薄い珊瑚色の唇は微かに震えている。
フェリクスの手を握るその力は、痛いほどであった。

 ただならぬ様子を察し、フェリクスはうなずいた。


  「なんでしょう……?」

  「私を人質とし、この<帝国>を抜け出し、
   <法王庁・教皇>のもとへ、私のこの身を差し出してはもらえませぬか?」

  「な、何故、そんな……?」


 おののくフェリクスの前に、<皇女>の手が差し出され、発言を静止する。
<皇女>の銀の視線が鋭く煌き、薔薇園の扉へと流れていった。

 魔法錠が解かれ、扉が開かれていくところだった。
間もなく、赤いマントが、一列の炎のようになびいて現れる。
魔道師の一団がこの薔薇園へと踏み込んで来たのだった。

 ローズマリーが、手を後ろにねじられ無理やり歩かされていた。


  「ついにこの場所をも、とりあげられてしまいました……。

   フェリクス様……」


 <皇女>はフェリクスの名を低く呼ぶと、包帯を巻いた手を膨らんだドレスの影へと回した。
その手の中に、<水晶片>が握られているのを見つけ、フェリクスが目を見張る。
<水晶片>が輝き、<皇女>の白いドレスの上に、映像を映し出していく。


  ――白い光が広がる中、何かを叫びながら、こちら側へと必死に手を伸ばす少年。


 再生された映像は一瞬で、音声もなかった。
だが、フェリクスの耳には、少年の叫び声と、そして女の子の鋭い悲鳴が、はっきりと聞こえてきた。


  『きゃああ!』

  『マリーッ!』


 それはフェリクスが<法王庁>で、<水晶片>に焼き付けようとしていた記憶――。
フェリクスの故郷の村を、白い光が襲ったあの夜の記憶と、同じものだった。

 いや、正確には違う。この映像には小さな女の子が光に飲み込まれるシーンはない。
光に飲み込まれているのは、15、6歳の少年である。

 八年前の夜を思い出し、フェリクスは顔色を失った。


  「なぜ、私の姿……。では……。では……!?」


  「あなたが彼女を救うという、その<使命>に縛られているように、
   私にも縛られる<さだめ>というものがあるのです。

   このままではあなたは、<皇帝陛下>の<客人>として生涯を終えるしかありません。

   私には、あなたの<使命>をかなえる準備があるのです。
   考えておいてください……」


 ドレスの影で<皇女>の手が動き、フェリクスの手の中へと<水晶片>を押し付けていった。
<皇女>の銀の瞳はもう、歩み寄って来た魔道師隊隊長の白い不気味な仮面へと注がれている。


  「<ロズマリン様>、お帰りが遅いので、お迎えに上がりました。
   <皇帝陛下>がお待ちかねです――」

  「亡き母の薔薇園に踏み込んでまでのお出迎え、ご苦労である」

  「夜遊びはお体に触ると――、<陛下>のお言葉です」

  「ふ……、また心にもないことを……」


 隊長の仮面は肯定とも否定とも取れぬ様子で傾き、無言のまま手を差し伸べ<皇女>をうながした。
魔道師団に取り囲まれ、連れて行かれる<皇女>の姿は、炎に包まれ燃え上がる白い花のようだった。
その上に、赤いその色を消そうとでもするかのように、白い花びらがはらはらと舞い落ちる。


  「フェリクス様も、お部屋でお休みなられてはいかがでしょう? ご案内しますわ」


 いつの間にか淡い草色のドレスの娘がふたり現れていた。
娘たちに左右を挟まれ、フェリクスもまた自分の意思とは裏腹に、
食事と調度品だけは豊かな<客室>という名の牢獄へと向かわされる。

 吹き抜けた夏風に、薔薇たちは重たげな首をいっせいに揺らし、
惜しみなく白い花びらと、香りとを振りまいていった。
熱気をはらんだ夜風と花の芳香とが混じりあい、庭には甘い風が吹き渡る。


  (この<水晶片>が映し出したのは紛れもなく、マリーの記憶!
   <皇女>は、マリーを知っている――!)


  ――聖暦719年、夏の終わり。

 八年前のあの夜、フェリクスは村へと白く輝く星が落ちるのを見た。
村までの道を急ぐ途中マリーと出会い、そこで二度目の光に巻き込まれ気を失ったのだ。

 フェリクスが意識を取り戻したのは、山の向こうにある町の施療院であった。
両腕とあばらを折っているという。

 フェリクスを迎えに馬車を出してくれていたドミノ青年も、共に運び込まれていた。
だがこちらはフェリクスよりも重症で、頭を強く打ち、昏睡状態だということだった。

 八日間も寝ていたのだと聞かされて、フェリクスはすぐさま町を飛び出そうとした。
だが、体が思うようには動かず、すぐに大人たちに連れ戻されてしまった。


  「僕たちのほかに、誰かいませんでしたか!?
   これくらいの背の、ちいさな女の子がいたはずなんです!
   お願いです、探してください! お願いです!」


 すぐに捜索隊が作られ、村へと向かった。だが、なにひとつ見つけられなかった。
生存者はおろか、形見となる品さえ、見出すことは出来なかったというのだ。

 二週間後、体が動くようになったフェリクスは、
町の老医師ダビド氏の同行という条件付きで、ようやく村へ向かうことができた。

 たどり着いた村で見たものは――。

 円形にえぐれた大地の跡。
水車小屋も学校も家々も、子供らが遊んだ田畑も。何もかもが――消え果ていた。


  「嘘だ……。こんなの、嘘だっ!」


 フェリクスは大地に跪くと、両手で土を堀り始めた。


  「なにかあるはずだ! きっと、形見の品くらい!」

  「やめるんだ、フェリクス! お前の体はまだ万全じゃないのだ!」


  「いやだ! いやだ! 放してくれ!

   あの子が……、マリーが、待ってるんだ!
   あの子は怖いと言ったのに、側にいて欲しいと言ったのに!

   僕は、掴んだあの子の手を放してしまったんだ!
   僕が殺したんだ! 僕が! 僕がっ!」


  「フェリクス!」


 老医師ダビドは、フェリクスの名を鋭く呼ぶと、その頬を強く打った。


  「フェリクス! お前を生かしたのは、<神々>の思し召しだ!」


 フェリクスは雷に打たれたように、老医師の顔を見上げた。
白い髭に覆われた顔が、見たこともないような険しいしわを刻んでいた。


  「フェリクス!
   お前は、<法王庁>に向かい、学ぶのだ。お前が生き残ったこと。そこに意味を見出せ!」


 悲しみを忘れるように、フェリクスは<法王庁>で学びはじめた。
間もなく戦争は終結し<連合>は解体され、<トルーフィールド村>は<帝国領>となってしまった。

 ドミノ青年がどうなったのか。あの親切な老医師ダビド氏が、どうなったのか。
<法王庁・聖都>にいるフェリクスには、知るすべもなかった。


 はじめて村の惨状を目にしたときのあの衝撃を、思い出の品ひとつさえ掘り出せなかった
あの深い絶望感を、フェリクスは、とても過去のものなどには出来なかった。

 その底なしの苦しみの中で、唯一希望として抱えてきたもの――それがマリーの生存。
フェリクスの胸は八年前のあの夜から、ひと時も休まず、その希望と共に脈動していたのだ。


  (街道まで出ていたマリーは、あの光の中心地から離れていた……。
   同じ場所にいたこの私に命があるなら、マリーもきっと……)


 その希望が、今、<水晶片>で現実のものとなっていた。


  (この<水晶片>にマリーの記憶がある。マリーは――、生きている!)


 フェリクスの喉の奥から嗚咽が漏れた。声を殺そうと口元に手をあてたが、その手も激しく震えた。
瞳から熱い涙が溢れるのを、フェリクスは止めることが出来なかった。


 ひとしきり泣いた後、天井をぼうっと見つめる。心が空っぽになったようだった。
そのまま<客室>のベッドに身を沈めていると、フェリクスの空っぽの心に少しずつ、
今日一日にあった出来事が蘇ってきた。


  『貴公の、<客人>としての<お役目>は決まった』

  『<皇女>の恩人、フェリクス氏を我が<客人>として<帝国>へ迎える』

  『私には、あなたの<使命>をかなえる準備があるのです』


 フェリクスの心の中で、自分をめぐって放たれた幾つもの言葉が弾けていった。
マリーの記憶を封じた<水晶片>を前にして、躊躇いはない。
もはやフェリクスには、<神々>も<法王庁>も<帝国>も関係はなかった。


  『貴公を縛る<使命>はもうない――』

  (私は、もう、<神官>ではない)

  『お前が生き残ったこと。そに意味を見出せ!』

  (私は、私がなすべきことをするんだ)


 フェリクスは左手に光る、銀の指輪を見つめた。
そうなのだ。全ては彼女の、マリーのために――。
それだけが、フェリクスが胸に秘め続けてきた、フェリクスだけの<使命>。


  (マリーを探すんだ! どんなことをしても!
   そう……、たとえ<法王庁>に背き、<帝国>に追われることになったとしても!)


 フェリクスは銀の指輪に誓うと、<水晶片>を硬く握り締めた。
汗ばむ手のひらに、ひやりと氷を握るような感触が伝わる。
<水晶片>には、まだ<皇女>の手の冷たさが残っているようだった。


  ――聖暦727年。
  それは、フェリクスがマリーと別れてから八年目――。
  真夏の夜の熱気だけは、あの頃のままだった。