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第三話「脈動」

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【1】

 ――聖暦727年、秋。

 <帝国城・鏡の間>からは、燃えるような木々の頭が見渡せる。
壁一面にはめ込まれた大鏡は、その見事な紅葉を無限に繰り返し室内を美しい紅色に染め上げる。

 ドレス姿の娘たちが忙しく動き回り、午後の紅茶の準備をする。

 焼きたてのスコーンと白いパン、チーズやハムのサンドイッチ、
狐色の焼き菓子に、一口サイズの小さなケーキや、艶やかな果物などなど。
薄緑色のドレスの袖がひるがえるたび、新たな品が現れて目の前の円卓は見る間に皿で埋まった。


  「フェリクス様は、お砂糖はいりませんでしたわよね? レモンをどうぞ」

  「ありがとう、メルローズさん」


 ふたりの娘がレモンとティーカップとを笑顔で差し出し、フェリクスも笑顔を返した。


  「私のことは、どうぞメリーとお呼び下さい。妹のシェルローズのことは、シェリーと」


 <客人>として<客室>に移されて以来、この姉妹はずっとフェリクスの世話係であったが、
出会いからひと夏を経て、ようやくフェリクスへ笑顔を見せるようになっていた。
 だがその笑顔は心を許したためではなく、役目の一助としての儚い代物であることも
フェリクスにはよくわかっていた。


  「フェリクス様、お味はいかがでしょう?」

  「すっきりしてとても美味しいですよ。
   このお茶は、どのあたりでとれたものなのです?」


 フェリクスの問いを聞いた姉妹たちは、さっとお互いの顔をみやり、いつもの言葉を放つ。


  「さあ、私どもには……。
   料理長に薦められたものを持ってきているだけですので
   そういうお話は魔道師隊隊長にお聞きください」


 どうやら<帝国>の様子がわかること――、地名や気候、主要人物や組織など、
様々なことが姉妹の中ではタブーとなっているらしかった。

 何度か<トルーフィールド村>のことや、フェリクスの後見人を務めてくれた老医師ダビド氏と
ドミノ青年のその後の消息などに探りをいれてみたものの、決して答えを得られることはなく、
姉妹はたちまちその表情を硬くするのであった。

 こんなやりとりのたび、フェリクスは姉妹たちの同僚だった者を思いおこす。


  (あの夜、<皇女>の元に私を案内してくれたローズマリー。
   彼女は魔道師隊に捕まって以来、姿を見せなくなってしまった。

   <皇女>は<亡き母の薔薇園>それさえもとりあげられたと言っていた。
   ならば、<皇女>のしもべであったローズマリーも……)


  『私を人質とし、この<帝国>を抜け出し、
   <法王庁・教皇>のもとへ、私のこの身を差し出してはもらえませぬか?』


 <皇女>の澄んだ声と、真剣なまなざしが思い起こされる。


  (<皇女>の望みは、<法王庁・教皇>様の元へ向かうこと――。
   <七つ村>で出会った時も、その道中。タイミング良く表れた魔道師隊は追手。

   <薔薇園>での様子を見る限り、魔道師隊は<皇帝>派と考えて良い。
   <皇帝>の指示で<皇女>を連れ戻しに来たと見るのが自然だろう。

   <皇帝>と<皇女>はおそらく対立関係に……。
   私やイアンや<七つ村>は、その騒動に巻き込まれたのだろうか?)


 一時、<七つ村>の光景を思い出し、フェリクスは胸が塞いだ。
白い光の中、炎に熱せられた氷のようにあっけなく消え去っていく、木々や家々。


  (<七つ村>のあの惨状が
   <皇女>をいぶりだすため、魔道師隊が行ったこと……!?

   いや、いくら<帝国>の魔法技術が進んでいるといっても、不可能だ。

   では、あの白い光はいったい……?)


 姉妹に不審がられぬよう窓の外を見つつ、フェリクスはそっと溜め息を逃がす。


  (わかっていることは、ひとつ。
   私が手を貸すべきは、<皇帝>ではなく<皇女>――)


 フェリクスの手が、そっと左胸を押さえた。
内側に作った隠しポケットには、<皇女>からもらった<水晶片>がある。
マリーの記憶を写し取った<水晶片>が……。

 窓の外では色づく木々の頭をかすめ、鳥たちが連れ立って飛び発つところだった。
力強く羽ばたく翼の示すその先には、澄んだ空が果てしなく広がっている。
帝都を見下ろす鳥たちの翼に、フェリクスは一時、心を乗せた。


  (はやく自由に動きたい。
   この<帝国>の空の下のどこかに、マリーはいるのだから――)


  「へえ、<神官>の癖に、こんな怖い顔する人なんだねえ。
   あー、でも、なかなかの美形じゃない?」


 突然、下の方から子供の声がした。
驚いて見ると、円卓の影から十歳くらいの男の子がひょっこりと顔を出している。
ふっくらとした愛らしい顔立ちで、笑いかけるその表情には人を惹き付ける愛嬌があった。

 しかし、服装の方はとても見られたものではない。
染みだらけでぶかぶかの服を着ており、靴も泥にまみれていた。

 突如現れた可愛いらしい侵入者に、姉妹はほぼ同時に口を開いた。


  「まあ、ノルドア様! どうしてこちらに?」

  「あら、宮廷画家様! 午後からは新作の打ち合わせでは?」

  「なんだよ、その不審者を見るような目は?」


 ノルドア、そして宮廷画家と呼ばれた男の子は姉妹の顔を交互に見上げつつ、
頬を思いっきり膨らませている。

 フェリクスたちの背後で、大鏡の一枚がすうっと動き出していた。
振り返ると、隠し扉だった大鏡が裏返り、中から正装をした<皇女>が現れるところであった。


  「彼は、私を描くためにここで待っていたのです」


 <皇女>は姉妹と、フェリクスとに涼しげな視線を投げかけた。

 大鏡に写りこむその純白のドレス姿は、まるで白薔薇の花弁をまとっているようであった。
白いドレスの表面は、紅い木々を映した鏡からの光をうっすらと反射して、
<皇女>の姿は、ごく淡い桜色に染まって見える。

 コスモス色の絹ショールは虹色の光沢をまとい、優美な曲線を描いて華奢な背中を覆い、
片口に留まった袖からは、獅子の紋章が編みこまれた真っ白なロンググローブが流れ出していた。

 銀の瞳をふちどる長いまつげと、ミルクのような優しい色合いの肌には、
銀の化粧粉が星屑のように散らされて、美しい顔を涼しげに引き立てている。

 現われた<皇女>の出で立ちは晴れた秋の昼下がりよりも夜にこそ相応しい豪奢なものだった。
艶やかに正装したその<皇女>の姿に、姉妹たちの表情が華やいだ。


  「お美しゅうございます、ロズマリン様!」

  「姫様、ああ!」


 感歎の声を上げて駆け寄った姉妹の目前で、<皇女>の手がさっと空をよぎる。
包帯が巻かれた細い腕が、近寄ろうとするふたりの娘を牽制していた。


  「この私に、そのような親しみを向けてはなりません。
   お前たちも、ローズマリーのようになりたいのですか?」


 ローズマリー――。その名を聞くと姉妹は息を呑み、顔をこわばらせた。
姉妹は、そのまま無言で壁際へと身をよせ、気配を消して控えていた。

 <皇女>は足早に、フェリクスへと歩み寄った。


  「新たな肖像画を<宮廷画家>に描いていただく口実で出てまいりました。
   今日は打合せのみということになっていますので、自由になるのは数分です。

   フェリクス様……、あの夜のお答えを」


  「その前に、お聞かせください。

   あなたはあの夜、<七つ村>で何をなさっておいでだったのです?
   なぜ、<魔道師隊>に追われていたのです?」


  「当然の疑念でしょう。
   私は、命の恩人であるはずのあなたを三ヶ月もの間、牢に置いてしまった。
   それで信じろと言って、簡単にあなたが協力してくださるとは思っておりません。

   そのために<あの品>をお渡ししたわけですが……」


 <あの品>と。<皇女>が一際低い声で囁くと、フェリクスの心には緊張が走った。


  (<皇女>はマリーの記憶を焼き付けた<水晶片>のことを言っているのだ。
   <皇女>はあれだけで、私を従わせられると思っていたのか。

   どうする……? 下手に逆らえば、マリーの手がかりが失われることも……)


 だがフェリクスの不安を他所に、<皇女>は淡々と言葉を継いでいった。


  「しかし、私にはあなたを説得する時間も、あなたを切り捨てる余地もない……。
   まずは、これを……」


 <皇女>は懐から、なにやら取り出して、フェリクスへと差し出した。
それは、小さく折りたたんだ一枚の<書類>であった。
受け取り、したためられた文面に目を走らせ、フェリクスは顔色を失った。


  『天上の神々の名の下に――。

   この<使命書>を、そなたに手渡した者を助けよ。

   なお、この<使命書>により、下記しもべには<熾天司教>の位を与える。
   <熾天司教>の名の下、この<使命>達成に必要となるあらゆるものは得られるであろう。

   これは、神々の代理人<教皇ヨナタ二世>より発令の<使命>である。
   上記<使命>、下記しもべに託す。

   この<使命書>を、初めて手にした<神々のしもべ>へ』


  「これは、<法王庁・使命書>……!?」


 フェリクスは目を見張り、<使命書>を読み返した。


  「そんな……。

   <熾天司教>といえば……、
   <智地司教>と並んで、全ての<司祭>の上に立つ、次期<教皇>にも等しい存在……。

   なぜ、あなたがこれを……!?」


  「<教皇ヨナタ二世>とは<講和条約>の調停式でお会いしました。

   この<使命書>は、その時にいただいたものです。
   世界平和のため、何かの際には<帝国>を捨て、私を頼れと……」


 確かに、一般に知られる<皇女>のイメージは、好戦的な<帝国・皇帝>とは違って、
<平和主義者>としてのものだった。

 この印象は、<帝国>と<連合>の大戦争を終結させるため
<法王庁・教皇>と<皇女>が尽力した結果、<講和条約>が結ばれたエピソードから来ている。
そのため<皇女>の名は<調停者>の欄に残されることとなったのだ。


  「ここは<帝国>……。
  
   つまり、フェリクス様。
   あなたが、この<使命書>を手にした初めての<神のしもべ>です」


  「では、やはり亡命を……?」


  「そう受け取ってもらっても、差し支えないでしょうね」


 生まれ育った<帝国>を捨て、対立する<法王庁>へ身を寄せようというのに、
その声は一定の音量を保ち、感情の波が微塵も感じられない。

 淀みなく語る<皇女>の落ち着いた姿を合わせ鏡が映しこみ、無限に繰り返していく。
背筋を伸ばした後ろ姿も、凛と引き締まった横顔も――。鏡に映った<皇女>たちの姿は、
息さえ止めてしまったように硬く、目の前にいる青年を見つめ、静かに答えを待っている。


  「わかりました。あなたに協力いたします」


 フェリクスはうなずいた。


  「<法王庁・教区>にさえ入れれば、
   この<使命書>の権限で、あなたの身をお守りすることは出来ます。

   ですが、私は<帝国>内では何の力もありません。
   例えあなたの仰るとおり、あなたを人質に<帝国>を抜け出そうとしても、
   あの魔道師隊とやり合って、勝てる見込みはありません」


  「それは私の方で手を打ちましょう。あなたは、<時>を待ってください」

  「<時>?」

  「私の印を覚えておいてください。白い薔薇、あるいは白い鳥です……」


 言うなり、<皇女>は廊下へと歩き出していた。
さっと歩み寄りドアを開けて、フェリクスは最も重要なことを尋ねた。


  「マリーは無事なのですね?」

  「私のこの身が<帝国領>を離れた後で……」


 すれ違いざまに交わされた、この素早いやり取りは、壁際で控えている姉妹たちには、
まったく聞き取れないものだったろう。


  「<帝国・皇女>とその命を救った<法王庁>の若き<司教>か――。
   これは価値が出るよなあ」


 宮廷画家ノルドアが、出来上がったスケッチを眺めて満足げにうなずいている。
スケッチの出来栄えを見つめるその顔は、先ほどまでの天真爛漫な様子とはうって変わって、
ひどく大人びて見えた。よく見れば服や靴の汚れも様々な色絵の具が重なって出来たものだった。

 いつの間に描いたのだろうか?
白い紙の上には真剣な様子で語り合う<皇女>とフェリクスの姿が生き生きと現れている。


  「まあ、ノルドア様! そんな危険なものは、おしまいになってくださいませ」


 メリーが眉をひそめると、小さな画家はスケッチブックからその絵を切り離し、
メリーにひょいっと手渡した。


  「だったらメリーにあげる。破くなり燃すなり好きにすればいい。

   でもさ、もしこの絵をずっと管理してくれたなら、おいらとっても嬉しいし
   きっとメリーの子供たちの時代にはひと財産になると思うよ。

   ねえ、シェリー? スケッチのお代にさ、お菓子もらっていい?」


  「え? ええ、どうぞ」


 小さな画家は答えを聞くなり、机の上に置かれた器に手を突っ込み、
掴められるだけの菓子を鷲掴みにして、ポケットへとねじ込んだ。
 最後にフェリクスへと振り向いて、掴んだお菓子のひとつを投げてよこす。


 「司教様、あんまり怖い顔しないでね。
  <帝国>も住めば都だし、きっとそのうち、いいことあるよ!

  ささ、<皇女>様! 肖像画について相談しましょう!
  せっかくのこの時節。亡きお后様の薔薇園で秋咲きの薔薇と共に……というのは如何です?
  後世に残る素晴らしい絵になると思いますよ!」


 絵の具のついた小さな手をひらひらと振って笑ったかと思うと、もう上着をひるがえして、
自分の倍以上も背丈のある<皇女>を、果敢にエスコートしようと駆けていく。

 小さな画家は人懐っこい笑顔であれこれと楽しそうに話しかけていたが、
時折向けられる<皇女>の横顔には、愛想笑いの僅かな笑みさえ浮かびはしなかった。

 絵の具まみれの小さな手が、<皇女>の腕から垂れる長いレースの袖を握りしめている。

 フェリクスはそこに、在りし日のマリーと自分の姿を重ねた。

 フェリクスの上着の裾を掴んで、フェリクスの顔を見上げる。
小さな泥だらけの手と、夏の日差しのようにきらきらと輝く丸い瞳。


  (<皇女>を無事<帝国領>から連れ出せば、マリーの消息はわかる……!)


 フェリクスの左手で銀の指輪が静かに光っていた。