ピカピカに磨かれた銅製の鍋や、鮮やかな絵付けをした飾り皿を壁一面に掛ける店、
金と銀の装飾品を並べた店や、数十種類もの穀物を計り売りしている露店など、
<市場通り>には、人々の暮らしを支える様々な用品店がひしめいていた。
紅茶を通行人にふるまっている茶屋の老人から、カップをひとつだけ受け取ると
魔道師隊の隊長は、そのカップを無言のままフェリクスへと差し出した。
「あ……、ありがとうございます」
「礼なら、その老人に言うがいい」
フェリクスが隊長の顔を覆う白い仮面をうかがうと、そっけない言葉が返った。
<皇女>と接触した日から、三日後のことであった。
<帝国・千年祭>の下準備のため、<帝都>内を案内する――。
そう魔道師隊隊長から言い渡されたのは、つい先ほど、遅い朝食を終えたばかりのことである。
(これは、脱出のまたとないチャンスだが……)
フェリクスは、カップに口をつけ、周囲にそっと目をやった。
左右前後どちらに目を向けても、フェリクスの視界には必ず鮮やかな赤い色が飛び込む。
赤いマントをはためかせた魔道師たちが、フェリクスを囲むように四方に配備されているのだ。
赤いマントに白い仮面をつけた魔道師たちの、その異様な出で立ちのおかげで、
市は大変な混雑だというのに、フェリクスの周りだけ、ぽっかりと空間が広がっている。
(やはり、この魔道師たちを全員まいて動くのは不可能だ。
<皇女>は手を打つと言っていたが……)
思いのほか甘い紅茶をゆっくりと飲み干すと、フェリクスはカップを老人へ返そうとした。
だが、その手からひょいとカップが取り上げられてしまう。びっくりして振り返ると、
隊長がカップをひっくり返し、仕掛けでも探すかのように手早くチェックをしていた。
何もないのを確認するなり、隊長は投げるようにして老人にカップを返す。
「さて――、次のポイントへご案内いたしましょう」
隊長が軽く手をあげた。すぐさま魔道師たちが歩み寄り、フェリクスの周りをひたと囲む。
袖も触れ合うほどのすぐ側に付き添われ、フェリクスが一瞬身をこわばらせる。
「御身を確実にお守りするためです。しばしご辛抱を」
表面上は穏やかに聞こえる声色。だが、魔道師隊隊長の素顔は、仮面に覆われたままだ。
白い仮面がこちらを見て笑ったような気がして、フェリクスは顔を引きつらせた。
『勝手はさせんよ――』
そう言われている様だった。
§ § §
案内された通りには、肉を焼く香ばしい香りと、
スパイスとハーブ類の爽やかな香りが入り混じって漂っていた。
どうやら飲食店が立ち並ぶ通りらしかった。
昼食時ということもあってか、先ほどの通りよりも人が多い。
大人の頭ほどもあるような巨大な肉の塊をあぶり、細かく刻んで切り売りしている店や、
白い湯気をたてて饅頭をふかしている店など、いたるところで商品を求める列が出来ており、
人々は歩きながらそれら軽食をつまんでは、また別な屋台に並んでいた。
細々した人々の動きを眺めつつ、フェリクスは隊長に従って、やや早足で歩いていた。
すると、前の方から幾つもの悲鳴が聞こえた。
人々が驚いて道を明けていくその中央を、風のように白馬が突っ切ってくる。
馬上には婚礼衣装をまとった若い女性が、身をこごめてしがみついていた。
積み上げられた野菜の山が蹴散らされ、あたりに芋とたまねぎが散乱する。
白馬は、ふいに立ち止まると、荒々しく鬣をふり乱した。
血走った目をくわっと見開き、人々を威嚇するように激しく地面を踏み鳴らし始める。
「大通りへ逃げろ!」
誰かが叫んだのがきっかけであった。
通りを埋め尽くしていた人々は顔をこわばらせ、こちら側へ向かって駆け出した。
押し寄せて来た人々の波に揉まれ、魔道隊の面々が押し流される。フェリクスもぶつかられ、
もみくちゃにされ、押し潰されるようにして道に転げた。
「くっ!」
そのフェリクスに黒々とした影が覆いかぶさる。馬の甲高いいななきが間近で弾ける。
ハッとして顔を上げると、フェリクスの頭上に白馬が大きく反り返っていた。
「!」
鋭く振り下ろされた両の蹄がフェリクスの頭を砕こうとした、その時――
赤いマントがひるがえった。隊長が魔法剣に手を掛け、風のように素早い動きで身をひねる。
目をむいたまま白馬の上半身がずれていき、砂煙を上げて、どおんっと石畳に落ちた。
残った下半身の後ろ足はその場で二度三度、激しく宙を掻いたが、バランスを崩し横倒しになる。
投げ出された花嫁に、鮮血が遅れて飛び散る。
血飛沫が降り注ぐ中、フェリクスはとっさに花嫁へと手を伸ばし、その身を支えた。
長いヴェールの上に小さな花飾りを見つけて、フェリクスの目が見開かれる。
(<白い薔薇>――! これだ! これが、<皇女>の計画!)
「その女から離れられよ!」
隊長は言うなりフェリクスを押しのけ、花嫁とフェリクスの間へさっと体を滑り込ませた。
隊長が花嫁の顔を改めようとヴェールに手を伸ばす。と、その腕に白いヴェールが絡みついた。
腕を絡め取ったヴェールをたぐり、花嫁が隊長の体を背に担ぎ上げ、一気に投げ飛ばしていた。
「ぐあっ!」
隙を突かれた隊長は馬の上半身の上へと投げ出され、したたか頭を打ち付けていた。
ハッとしてフェリクスが花嫁の顔を見上げる。
ヴェールを取り去り、結い上げた髪を解き、風になびかせるのは、見覚えのある美しい武人。
「ローズマリーさん!?」
そうつぶやいたフェリクスの手を何者かが引っ張っていく。
「<司教様>、おはやく!」
見れば先ほど茶屋の前で茶を振る舞っていた老人が、フェリクスを路地へと引っ張っていた。
「ローズマリーさん、あなたも!」
思わず叫んだフェリクスに、ローズマリーが不敵な笑みで答えた。
「ふっ……。
私は<司教様>が無事逃げおおせるまで、彼らを足止め致しましょう。
特にこの者とは浅からぬ因縁もありますゆえ。
無事逃げおおせたら、お茶でもおごってくださいませ。
フェリクス様、姫様を頼みます! はあっ!」
勇ましいかけ声をあげ、ローズマリーは立ち上がった隊長へと斬り込んでいく。
ローズマリーのその凛々しい姿を目に焼き付け、フェリクスは吹っ切るようにして駆けだした。
路地を駆けるフェリクスの背後に、石畳を打つ、強い足音が複数迫った。
魔道師隊の足音を背後に、老人とフェリクスは店の中へ飛び込んだ。
老人がフェリクスを店の裏口から外へ押し出すなり、扉を塞いでしまった。
「ご老人!」
「ここを道なりに下ってくだされ。追っ手は、わしが!」
「すまない!」
目の前には、長い下り階段が延々と続いている。フェリクスは階段を飛ぶように走った。
背後で激しい爆発音がした。振り向いて見上げると、老人がいたはずの店の屋根を食い破り、
巨大な炎の蛇たちが鎌首を持ち上げていた。
「!」
反射的に戻ろうとしたフェリクスの肩を、何者かが強引に掴んで引っ張りあげる。
「皆の命を無駄にせんでくれ」
そう言った男の、その顔さえ確認する暇はなかった。
壁の一角が裏返り、隠し扉が開くと、フェリクスの体が中へと押し込まれていた。
「さあ、急いで!」
中で待っていた、そばかす顔の少年に促され、フェリクスは走り出した。
思いを断ち切るように、風の中、向かってくる風景だけを睨む。
細い路地を進み、曲がりくねった階段を下って行くと、ゆったり流れる水路に突き当たった。
水面に落ちた小笹の葉のように、頼りなく揺れる小さなボートが流れてくる。
船の上、ぼろをまとった人影が身を起こし、フェリクスと少年を見上げている。
と、炎の唸る音がした。背に熱気を感じると同時に、フェリクスは背を押された。
「<司教様>、行って下さい!」
少年がフェリクスを水路へと押し出しながら、階段を駆け上がった。
振り向けば、数匹の炎の蛇がフェリクスと少年めがけて、突っ込んでくる。
「はっ!」
素早く呪文を唱えると、少年は掛け声と共に、両腕を突き出した。
透明な魔法の水をまとった少年の両腕が、炎の蛇の一匹を巻き付け、ひねり潰した。
蛇は不気味な声を上げ、ひとすじの煙となってかき消える。
少年は猛烈な勢いで階段を駆け上りながら次々と蛇を潰すと、新たな呪文を唱えながら
杖を構える魔導師たちの前に立ちはだかった。
一足早く、魔道師の杖から放たれた炎の蛇が、少年の印を描く右腕を捕らえた。
炎の蛇に右手を喰われながらも、少年は自由になる左手だけで果敢に呪文を引き継ぎ、放った。
「姫様を頼みます!」
フェリクスへと一声叫んで、少年が左手を振り上げる。
水路の水がねじれながら集結し、巨大な水の竜巻を生み出した。
水の竜巻は身をうねらせ、凄まじい勢いで魔道師たちに襲い掛かる。
魔道師たちがとっさに放った炎の防御壁が、水の竜巻と激しく衝突した。
炎の魔法と水の魔法のぶつかり合いに、辺り一面はたちまち濃厚な水蒸気に包まれた。
水の竜巻は回転数を上げながら、炎の壁にめり込んでいく。
炎は燃え上がり竜巻をせき止めたが、それは一瞬だった。
竜巻の威力に炎の壁は激しく揺らぎ、端から煙となって消えていく。
炎の壁を掻き消すと、水の竜巻は回りながら、魔導師たちへと襲いかかった。
激しい水に杖を取られながらも、魔導師たちは印を結び、炎の玉を撃ち出していく。
幾つかの炎の玉が水の竜巻を貫くと、水は竜巻としての姿を保てず、破裂した。
土砂降りの雨のようになって弾けた水は、魔導師たちの頭上に降り注いだ。
もうもうと立ちこめる水蒸気の靄の下から、先ほどまで竜巻だった水が音を立てて流れ出す。
水は凄まじ勢いで階段を滑り、一気に水路へと押し寄せると、小さなボートを力強く押し出した。
速度を増したボートの上、人影がフェリクスへと手を伸ばしている。
フェリクスは人影の手を取り、ボートへと飛び乗った。その手の冷たさに、一瞬身がすくむ。
ぼろぼろのフードの陰に降りた銀色の髪のひと房を確認し、フェリクスが小さく叫んだ。
「<皇女>!」
「ローズマリーは!?」
「あなたを、頼むと……」
<皇女>はまとったぼろを脱ぎ捨て、ボートから身を乗り出し、町を見上げた。
仰ぎ見れば、フェリクスが逃げてきた道すがら、激しい炎と黒煙が立ち登っている。
<皇女>が唇を噛みしめ、キッとした表情で流れ去る街並みを見つめた。
背後に立ちこめていた水蒸気のもやの中から、ゆらりとひるがえる鮮やかな赤が現れた。
赤いマントの一団、魔導師隊が水路に向かって、ゆっくりと下りてくる。
彼らの足元には、先ほどの少年がその細い体から炎を上げ、無残に投げ出されていた。
魔道師は一列に並ぶと、いっせいに杖を構えた。
杖にはめこまれた魔石に黄金の竜が不気味に浮かぶ。魔石が輝き、小さな炎を吹き出す。
魔導師たちの呪文を得て、炎は見る間に成長し、互いに絡み合って激しい炎の渦となった。
激しく渦巻く炎のねじれは、やがて巨大な炎の竜となって滑り出し、ボート目指して泳ぎ出す。
フェリクスの顔に緊張が走る。
「<皇女>がいるのに!?」
ボートの上に身をのけぞらせ、炎竜はフェリクスと<皇女>を睨み付けた。
その口がくわっと開き、喉の奥から燃えたぎる炎の熱が込み上げてきていた。
急激に熱せられていく大気を全身で感じ取り、フェリクスは硬直した。
「危ないっ!」
<皇女>の声が鋭く弾け、フェリクスの体が宙に投げ出される。驚いて船をみやると、
<皇女>が両手を前に突き出し、つい先程までフェリクスが居た場所にいる。
その<皇女>の横で炎の竜が牙をむき、らんらんとした目を光らせている。
フェリクスは、自分の体がゆっくりと水路へ落ちていくのを感じた。
「!!」
熱風に煽られ、<皇女>の銀髪が扇状に広がっていく。
炎竜が大きな口を開け、振り向きつつあった<皇女>へと飛び込んでいった。
オレンジ色に逆巻く炎に<皇女>の姿が、ゆっくりゆっくりと飲み込まれていく。
まるで時の流れが狂ったかのように、フェリクスの目には全ての情景がゆっくりと見て取れた。
ばしゃん! 水面に叩きつけられ、フェリクスはもがいた。
水中から見上げるフェリクスのその頭上を、真っ赤な炎の帯が揺ら揺らと舐めていく。
急いで水をかき、水面に頭を出せば、ボートは炎の柱を吹き上げていた。
炎に包まれたボートから、火達磨となった人影が倒れていき、フェリクスは叫んだ。
「<皇女>!」
投げ出された<皇女>の体へ、フェリクスは泳いだ。
水の中で、透き通るドレスをふわりと広げ、ゆっくりと降りていく<皇女>の姿は
まるで<福音書>に記された、天から舞い降りてきた女神のようであった。
その手を取り、水面へと導こうとするが、すぐさま炎の唸る音が迫る。
水路に潜むフェリクスと<皇女>を睨むように、炎竜がとぐろを巻き、上空を漂っていた。
(上はだめだ!
水路は地下に降りている。この流れに乗って、水路を下ろう!)
フェリクスは先ほどちらりと見た水路の先のトンネルを思い起こし、心の中でうなずいた。
意識を失っているらしい<皇女>をしっかりと胸に抱くと、片手で力強く水をかく。
しかし、泳ぎだして少しも行かぬうちに、異様な気配がフェリクスを襲った。
耳が異音を捕らえていた。ハッとして振り向くと、後方から凄まじい勢いで何かが迫っていた。
(!?)
水流を突き抜け現れたのは、はじめ銀色の魚の群れのように見えた。
フェリクスと<皇女>に向かって、銀の弾丸のように降り注いでくるそれらが、
鞘に収まったままの無数の魔法剣であると気づいた時には遅かった。
数本の魔法剣がフェリクスの衣を捕らえ、フェリクスごと水の奥へと押し込んでいく。
<皇女>と引き離され、フェリクスはもがいた。あっという間に景色が流されていく。
(くそっ!)
魔法剣の一本が<皇女>へと伸ばされたフェリクスの手を強く弾き飛ばした。
水流に漂う<皇女>の細い体に、無数の魔法剣が襲いかかる。
(<皇女>!)
フェリクスの心の叫びが届いたのか、<皇女>はさっと手を振り上げたようだった。
その瞬間、<皇女>を中心に眩い光の帯が走り出し、水路の底に、輝く文様を描き出していった。
(な、なんだ!?)
それがなんであるのか読み取る間もなく、突如、起きた白い光にフェリクスは巻き込まれた。
光が起こした激しいうねりに翻弄され、フェリクスは口の中に溜めていた空気を吐き出した。
大量の水を飲み、胸が詰まる。
だが、爆発するように膨れあがり、急速に広がっていく白い光はその勢いで、
フェリクスの周囲の水を一気に吹き飛ばした。つかの間、水がなくなり、空気が戻る。
フェリクスは、ハッとして息を継ぎ、そして自分を包み込む真っ白な光を呆然と見つめた。
(この……光は……!?)
水の支えを失ったフェリクスの身が、水路の底へと投げ出されいく。
目も眩むような白い光に包まれ、フェリクスは意識を失った。
§ § §
ふと、目を開けると、そこは地下水路の一角のようだった。
石畳の床はやや傾き、下の方には水が溜まっている。
流れ着いたらしい歪な魚の群れが、巨大な尾でせわしなく床を叩いていた。
めぐらせた視線の先に倒れた<皇女>の姿が飛び込んできて、フェリクスはハッとした。
慌てて起き上がろうとして、手足に枷があることに気づく。
「やれやれ……、無茶をなさる」
仰ぎ見れば、青白い魔法灯が照らす水門の上に赤いマントの列が翻る。
整列した魔道師たちの列をよぎって、魔導師隊隊長がゆっくりと歩いてきていた。
水色の影をつけた無機質な白い仮面が、フェリクスと<皇女>を静かに見下ろす。
「あなたがたは何故、<皇帝陛下>に逆らおうとなさる?」
<皇女>が倒れたままの姿勢から、顔を無理やり持ち上げて隊長を睨みつける。
「<陛下>に逆らうことが本意ではありません」
「では……一体何を?
これほどの犠牲を払ってまで、一体何を、あなたは望んでおられる?」
「――世界のためです」
その<皇女>の声は、僅かに震えているようだった。
「――世界のために。私の、この身は、捧げられているのです。
私のこの身だけの問題なら、私はけして――。
そう――、けして<陛下>のお言いつけに、逆らうことなどなかったでしょう!」
力強く放たれた声は、静まり返った地下水路に響き渡っていく。
<皇女>の声に、魔道師たちがあとずさった。突風に煽られた炎のように赤いマントが揺れる。
隊長が微かに首を振った。
「世界の行く末――。それをお決めになるのは、あなたではありません。
――<皇帝陛下>です。
あなたがその中で、何を<さだめ>とすべきか――。
それもまた、<皇帝陛下>がお決めになることです。
<皇女様>、あなたは、まだ<帝国>の支配者ではございません。
<皇帝陛下>のお言葉に従っていただきます。
さあ、<皇帝陛下>がお待ちです。<ロズマリン様>をお連れしろ!」
魔道師たちが背後から現れ、<皇女>の身を無理やり立たせた。
「さて、フェリクス殿――。貴公については、私がお送りしよう」
隊長がひらりとマントをなびかせ、水門から降り立った。
隊長はフェリクスの腕を掴んで立たせると、<皇女>とは反対の方向へ引っ張っていく。
「待ってください、<皇女>と話を……。少しでいいのです!」
フェリクスは隊長の手を断ち切らんとしながら、身をひねった。
魔道師隊に囲まれた<皇女>へと手を伸ばすが、隊長がフェリクスをはがいじめにし自由を奪う。
「<皇女>! 待ってください! <皇女>、水晶の……、あの約束は……!」
「ええい、おとなしくしないか!」
「あなたこそ! 私を離して下さいっ!」
このままではマリーの手がかりを失う!――その焦りが、フェリクスの心をかき乱した。
隊長の腕から逃れようと激しくもがくフェリクスの指先が、何か硬い物を弾き飛ばした。
からんからんと軽い音を立てて、白い仮面が傾いた床の上を滑っていく。
「――!?」
反射的に仮面の行く末を見つめて、フェリクスは息を呑んだ。
地下水路の高い天井を支える柱の一角が、巨大な力でもぎ取られたように失われていた。
奥にある石積みの壁も、そのまた奥の石畳の床も、同様に崩れている。
崩れた跡はすべて蝋のように、どろりと溶けているように見えた。
フェリクスは、その溶けた跡が、自分が倒れていた場所へまっすぐに向かっていること、
そしてその崩れた箇所がそれぞれ、円形に窪んでいることに気づいた。
円形に抉り取られた巨大な跡地……。
何かが――頭の片隅で動き始めていた。重要な記憶へ繋がる手がかりめいたものが。
それを感じとり、フェリクスの身が凍り付いた。
「貴公も、無茶をする」
魔道師隊隊長の声が、すぐ側で聞こえ、フェリクスは視線を戻した。
大きな手で顔を覆い、こちらへと僅かに振り向いたその横顔。
指の隙間からちらりと見えた、その彫りの深い精悍な顔立ち。はらりと落ちた前髪の下、
日焼けした小麦色の肌の上に、ごく薄い空色の瞳が鋭く煌いた気がしてフェリクスはおののいた。
「イア……ン……!? うっ……」
鈍い痛みが腹の上にあった。
フェリクスは腹を抱えて身を折り、ゆっくりと床の上に滑り落ちた。
「イアン、君は死んだと……。なぜ、こんなっ……!」
激痛に脂汗を吹き出しながら、フェリクスは隊長の素顔を見上げ、声を絞った。
「おとなしくなさってください。
<薬草院>所属――、第一級神官フェリクス・フェアランド様」
言葉と同時に隊長の足が背中側に引き上がるのが見える。フェリクスは目を見開いた。
浅黒の顔、その低い声。全てを見透かすような鋭い空色の瞳。それは紛れもなく<法王庁>で
共に過ごした仲間、第二級神官イアンシル・イェールに間違いなかった。
「まったく手のかかるお方だ!」
その声と共に、隊長の足がしなり、フェリクスの鳩尾を捉えた。
「ぐあっ……!」
鈍い痛み。腹の中にあるもの全てが口元から噴き出すような感覚が襲う。
(イアン……。どうして、君が……!)
誰かに担がれるような感触と混乱の中、フェリクスは再び意識を失った。
§ § § § §
「イアン!」
叫んで身を起こすと、そこは<客室>のベッドの上であった。体中が汗で濡れている。
窓の外から射し込む光はもう、夕暮れの色合いだった。
立ち上がろうと身をねじって、フェリクスは鈍い痛みを全身に覚えた。
「うっ……」
ひときわ痛む腹の上に手を当てれば、途端に火がついたような激痛が走る。
「そうか……。あの時のか……」
魔導師隊隊長に腹を蹴り上げられたことを思い出し、フェリクスは唇を噛んだ。
「あれは……、イアンだった! でも、なぜ!?」
わからなかった。
あの<七つ村>での使命の途中、白い光の爆発に共に巻き込まれ、イアンは足を怪我した。
フェリクスが<皇女>と魔道師隊に捕まった後、イアンはひとりで取り残されたことになる。
あの山道を馬もなく、怪我を負った足だけで降りることは困難だったろう。
そして、<法王庁>の救助も遅れ、イアンはそのまま命を落とした――。
フェリクスは、そう思い込んでいたのだった。
「イアンが生きていた。しかも、魔道師隊の隊長として?
なぜなんだ? イアンはなぜ……? うっ……」
こめかみに鋭い痛みを覚えて、フェリクスは頭を抱えた。頭が割れるように痛かった。
寒気を感じ、そっと体に手を回すと、肌が氷のように冷えきっている。
「体力を消耗したんだ……。何か食べないと……」
温かいものを頼もうと卓上のベルに目をやると、菓子がひとつだけ置いてあった。
包み紙にはべっとりと黄色い絵の具がついている。あの小さな画家が投げてよこしたものが、
まだ置いてあったのだろうか?
何気なく口に含み、フェリクスは吐き出した。硬く巻いた細長い<紙片>があった。
驚き開いて見ると、走り書きされた文字が飛び込んでくる。
その絡み合った草の根のような文字に、フェリクスは見覚えがあった。
薄暗い石牢の中――。パンの中に隠された、イアンとフェリクスの死を伝えるあの<紙片>。
(あの時の筆跡と同じ――!?)
フェリクスは急いで文章を解読した。
『司教よ、<皇女>を信じるな。お前の信じるは<神々>のみ――。
今宵、<帝国城・地下書庫>で待つ』