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第三話「脈動」

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【3】

 その夜――。深夜までたっぷりと時間を使って食事をしてから、
フェリクスはメリーとシェリーの姉妹に<帝国>の書物を読みたいと申し出た。

 理由は、<帝国・千年祭>のためとした。
<帝国>の歴史を知ることで宗教色を廃した千年祭の実現が容易になるのではないか、と。


  「それなら、<帝国城>の地下に<地下書庫>がございますわ。ご案内いたしましょう。
   城内ならば、ご自由にしていただいて問題はありません」


 姉妹は快く、<帝国城・地下書庫>へと案内してくれた。

 姉妹の案内に従って、魔法灯が照らし出す幅広の螺旋階段を下りながらフェリクスは考えた。
夕食に<トルーフィールド地方>の郷土料理、鶏と芋の煮込みをそっと出してくれたりして、
姉妹は表立っては行動できないものの、それなりにフェリクスの身を案じている様子だった。

 それに、姉妹たちは平静を装っていたが、時折表情を曇らせもした。
そのことから、フェリクスは姉妹が<皇女派>であるかもしれないと推理していた。


  (あの騒動で、またかなりの者が捕まってしまったことだろう。
   ローズマリーさんは、無事だろうか……)


 ローズマリーを始め、犠牲になった者たちのことを思えば、胸がえぐれるようだった。
彼らにも家族がおり、それぞれの生活があったはずである。その彼らが何を思い命を賭けたのか?

  『――世界のために。私の、この身は、捧げられているのです』


 フェリクスは、地下水路で最後に見た<皇女>の姿を思い出していた。
強い瞳で隊長を睨み続けていた<皇女>の、その姿を。


  (<皇女>は世界と言った。
   <帝国・皇帝>に逆らおうと言う、その覚悟は並大抵のものではないのだろう。

   それに<教皇様>にいただいたという<使命書>――。
   これは<皇女>の切り札のはず。
   私の手にこの<使命書>がある限り、<皇女>は私を使う。

   時間はかかるだろうが、必ず次のチャンスは来る。
   その時までに、私は、私が出来ることをしておかねばならない。

   この<紙片>の送り主と、その真意を確かめるんだ……)


 と、姉妹が足を止めた。螺旋階段が終わり、大きな扉が目前にそびえ立っていた。
剣のレリーフを施した大扉には、錠前がついている。

 シェリーが胸元から鍵を取り出し、メリーに手渡した。
メリーも胸元から鍵を取り出し、受け取った鍵に合わせてひとつの鍵とし、錠前に差し込んだ。
姉妹が息を合わせてドアノブに力を込めると、扉は重々しい音を立てて開いた。


  「さあ、どうぞ、フェリクス様」


 姉妹にうながされ、フェリクスは<地下書庫>へゆっくりと足を踏み入れた。

 そこには、天上まで届く大型の本棚がずらりと並べてあった。しかし書物の分類はでたらめで、集められるだけ集めているが、手入れは行き届いていないようである。

 乱雑に詰まれた本のせいで、通路はところどころ行き止まりになっており、
それがふいに行く手をさえぎっては、人々を行きたい方角から遠ざけ、迷い込ませる。

 本に埋もれた床の様子などは、どこかフェリクスの部屋を思い起こさせた。
図書館のような公的な場所ではなく、誰か個人の書斎のような雰囲気がある。

 長い間、本に慣れ親しんできたフェリクスと、そうではないらしい姉妹とは、
意識することもなく自然に距離が離れていった。


  「フェリクス様、迷子になってもこの明かりを頼りに戻ってきてくださいね」

  「私どもはいつまでもお待ちできますから、どうぞお気兼ねなく」

  「ありがとう、メリーさん、シェリーさん」


 メリーとシェリーが入り口に燭台を集め、火を灯したようだった。

§ § §

 しばらくフェリクスは当てもなく歩いた。

 高く詰まれた本の上に、誰かが読みかけていたのか分厚い本が開いてあった。
その上には、しおりが置かれている。

 何気なく本を閉じて表紙を見ると、<施療院医学書>とあった。
その題名が記憶に触れ、ふっとフェリクスは目元を緩めた。


  (懐かしいな。
   <法王庁>に行く時、ダビド先生に餞別としていただいたものと同じだ……)


 しかし、本に挟まれたしおりを改めて見て、フェリクスは目を見張った。
しおりにはリンゴ飴をかじる栗毛の青年の姿が描かれていた。特徴を掴んだ大胆な筆運びは、
あの小さな宮廷画家を思い出させるものだった。

 フェリクスは今一度本を開いて、先ほどと同じようにしおりを置いてみた。
しおりが指す通路の先には、高く積み上げられた本があり、その上には開いた本が見える。

 本で行き止まりになっている箇所を大きく迂回し、フェリクスは開かれた本へ向かった。
本の上には先ほどと同じく、リンゴ飴をかじる青年のしおりが置かれていた。
表紙に刻まれた銀の文字を確認する。


  (<大陸植物図鑑>だ……)


 先ほどの医学書もこの植物図鑑も共に<連合国>時代の本で、フェリクスの愛読書だった。
しおりが指し示す方角には、また開いた本が垣間見える。


  (私を呼んでいる……)


 フェリクスはしおりの示す道を進んだ。
それからも鉱物の資料書や古代技術の書など、馴染みある書物を経て、
フェリクスは花の装飾をふんだんに施した小ぶりな本棚にたどり着いた。

 本棚の前には、<福音書・写本>が開いてあった。


  『神々は、<はじまりの者>に言われた――。

     「では、我々は、千年後のこの日、ふたたびこの地上を訪れ、
      そなたの子孫に相応しい<祝福>を与えよう。

      そしてその同じ時に、
      我々は、我々とそなたとが交わしたこの<約束>と同じものを――
      千年後に子孫たちの子孫たちの元へ行き、相応しい<祝福>を与える
      ――というものを、そなたの子孫たちにも約束しよう。

      また次なる千年にも、そのまた次なる千年にも、
      我々とそなたたちと交わしたこの<約束>は果てることはない。

      今日この日の約束をはじめに、
      未来永劫、我々はそなたたちとこの地上を見守っていくのだ」』


 それは<福音書>の中でも、もっとも有名な一節を記したページ。
<神々>が千年ごとに地上に降り立ち、<祝福>を与えると約束されたページだった。
挿絵には、天から舞い降りてきた<神々>と、それを見上げる若者の姿が描かれている。

 フェリクスはしおりの指し示す方角を見つめた。
しおりはまっすぐに、花の彫刻を施した小ぶりな本棚を指している。

 試しにそっと本棚に触れてみると、本棚は音もなく滑り出した。
本棚の裏に現れたぽっかりとした空間へと、フェリクスは身をかがめ、潜り込んだ。

§ § § § §

 狭い通路を背を丸めて慎重に進むと、やがて道幅は徐々に広がり、開けた空間へと出た。
歪んだ七角形の部屋の床には、色あせたモザイクが敷き詰められ、いびつな方陣を描いている。
それぞれの壁にはフェリクスが辿って来たのと同じような通路がぽっかりと黒い口を開けていた。

 規則正しい足音を響かせ、そのひとつから人影が現れた。


  「あの姉妹をまくとは。貴公――、だいぶ立ち回りが上手くなったようだな」


 魔道師隊隊長であった。いつものように赤いマントを羽織り、顔は白い仮面で覆っている。
隊長は懐から<書類>を取り出すと、フェリクスへと差し出してきた。


  「受け取れ」


 <書類>を受け取り、フェリクスが開く。


  『天上の神々の名の下に――。

   十年前より、我が<法王庁・教区内>でたびたび目撃されている謎の怪光は、
   <帝国>が開発した<古代兵器>であることが確認された。

   速やかにこれを奪い、<法王庁>に持ち帰るべし。適わぬ時は、これ破壊すべし。
   手段は問わぬ。

   これは、神々の代理人<教皇ヨナタ二世>より発令の<使命>である。
   上記<使命>、下記しもべに託す。

   熾天司教フェリクス・フェアランド。

   なお、<使命>を確認後、この<使命書>はただちに破棄せよ』


  「<古代兵器>……?」


 フェリクスの心の中に、ふたつの風景が蘇る。<トルーフィールド村>と<七つ村>と――。
白い光に包まれていくふたつの村。その光景が、ぴったりと重なり合い、白い輝きに消えていく。


  「あの白い光が、<古代兵器>――!?」


 震えるフェリクスの細い手から、隊長は<使命書>をそっと取り上げた。


  「<熾天司教>か――。
   <皇女>が持つもう一通の<使命書>の行方も、お見通しというわけだ。
   たいしたお方らしいな、<法王庁・教皇様>とやらは……」


 部屋を照らす魔法灯の光に、隊長は取り上げた<使命書>を差し出した。
全てが灰になり、通路を吹き渡る冷たい風にさらわれ、粉雪のように漂っていく。


  「これで私の役目は終わった。では、失礼――」


 隊長はきびすを返した。その長身が通路の暗闇に飲まれていく。


  「待ってください……」


 フェリクスの低い声に、隊長が歩を止めた。白い仮面が僅かに傾き、フェリクスへと振り返る。


  「私は、幼い頃、ある人を助けられませんでした。
   <帝国>へ着いてからも、大勢の人たちを巻き込んでしまった。
   もう、知らなかったでは済まされない。私は、真実を知らねばなりません」


  「そちらの事情など知るか。失礼する――」


 立ち去ろうとする隊長の行く手へと回り込み、フェリクスは無機質な白い仮面を見上げた。


  「いいえ。私の質問には全て答えていただきます。

   <帝国>魔道師隊隊長、
   元<連合>士官にして、<法王庁>第二級神官イアンシル・イェール。
   これは、<熾天司教>としての命令です!」


 隊長の体が微かに身じろいだ。
白い仮面が傾き、横を向いて顔の半面に不気味な青黒い影を作る。

 しばしの静寂が、場を支配した。
フェリクスは隊長を睨んだまま、隊長は横を向いたまま、どちらも一言も発さなかった。
やがて、仮面の向こうから、微かなため息が漏れた。


  「命令ならば仕方無い――。
   これ以上隠して、下手に騒がれるのも得策ではないしな」


 低い声でつぶやいて、隊長が装飾を施した白い仮面へと手を掛ける。
現われたのは、小麦色に焼けた肌。彫りの深い凛々しい顔。
鋭く光る空色の目は、通路の鈍い光を受け、静かな光をたたえている。


  「やはり、イアン――!」


 友の顔をしかと確認して、しかしフェリクスの顔は引きつっていった。

 フェリクスとイアン――。
春先、<七つ村>で別れて以来、約半年ぶりに素顔で再会したふたりは、
今や<法王庁>で学んだ仲間ではない。

 <法王庁・熾天司教フェリクス・フェアランド>と、
<帝国・魔道師隊隊長イアンシル・イェール>。
敵対するそれぞれの勢力に属したふたりの間に、張り詰めた空気が流れていく。


  「なぜです? なぜ、君が、魔道師隊の隊長などに?」

  「ああ、話してやるさ。話してやるからよく聞くがいい、<法王庁>の操り人形め!」


 吐き出された言葉には侮蔑が込められていた。イアンの顔に、かつて見たことも無いような
恐ろしい形相が浮かび、フェリクスは我知らず身をこわばらせた。


  「前にも言った通り、俺は<連合>の出身だ。
   <連合>の主導者たちが、その領地を<神々>に捧げた時、
   俺たち前線の兵士は見捨てられた」


  「そんなことはないでしょう。<教皇様>は、<連合>には罪はないと……」


 思わず口を挟んだフェリクスを、燃えるようなまなざしが射すくめる。


  「はっ! 勝者がねつ造した歴史を信じるとはな。だから、お前は操り人形だというんだ!」

  「!」


 イアンの恫喝に、フェリクスは怯んだ。
魔法灯が照らす青白い光の中、イアンの口元が不気味に歪んだ。


  「俺は<連合>を許せん!
   <連合>が持つ領土欲しさに、無条件で連中を受け入れた<法王庁>もな!

   わかったら、もう俺に関わるな! 俺も、お前との縁はこれで切る!」


 蒼白となったフェリクスに憎しみの一瞥をくれ、イアンが赤いマントをひるがえす。
そこへ――。聞き覚えのある、あの独特の、冷たい声が響いてきた。


  「イアンシルよ――。その<客人>を我が元へ連れて参れ」


  「しかし、<皇帝陛下>。この者はまだ<法王庁>を……」


  「案じずとも良い。<客人>の心の所在など、私には関係ない。
   逆らうならば、力ずくで連れて来い」


  「はっ!」


 イアンがゆっくりとフェリクスへと向き直った。その片手は魔法剣の柄に置かれている。
空色の瞳に明らかな敵意を読み取って、フェリクスは全身から血の気が引いていくのを感じた。

§ § § § §

 イアンに連れてこられたのは、広々とした空間だった。
地下書庫からの方角から、フェリクスはここが<帝都>真下にあるらしいと推測した。

 歯車の軋みあう唸り声が、部屋全体をかすかに振動させている。
壁や床は機械仕掛けで、その間を縫うように、太さの違う金属製の管が無数に走っていた。


  (滅びた<古代技術>が、動く形で再現されているなんて……)


 <帝国・皇帝>の持つ技術の深さに、フェリクスは恐れを感じていた。

 イアンは歯車が噛みあう大掛かりな機械の合間を抜けて、フェリクスを連れて行く。
しばらく歩くと、ふいに視界が開けた。

 そこは、広々とした円形の部屋だった。天上からは金色の光が降り注いでいる。
フェリクスが見上げると、ドーム型の硝子天井いっぱいにステンドグラスがあった。
大きく翼を広げた金色の竜と、剣を振り上げる勇ましい兵士たちが生き生きと描き出されている。

 ステンドグラスの金色の竜から降り注ぐ眩い金の光が、機械だらけの地下の一角に、
まるで歴史ある聖堂のような荘厳な雰囲気を醸し出していた。

 ステンドグラスの光を反射して、部屋にびっしりと置かれた物体がきらきらと煌いている。
光に目を凝らして、フェリクスはおののいた。


  「これは、<水晶>?」


 光を反射していたのは、四角く切り出された半透明の<水晶>だった。
部屋全体に整然と並ぶ<水晶>はかなりの大きさだ。高さはイアンの背よりもはるかに大きい。

 巨大な<水晶>のひとつひとつは、機械の台座によって支えられていた。
室内を巡っていた様々な太さの金属管は、それぞれの機械の台座へとつながれている。

 <水晶>の表面はうっすらと霜が降りており、中をうかがうことは出来ない。
屹立する<水晶>を抜け、部屋のほぼ中央までやってくると、イアンは恭しく頭を垂れた。


  「<客人>をお連れいたしました」


 激しい横揺れがフェリクスの足元をすくった。部屋全体が鈍い唸りを上げて不規則に揺れる。
ステンドグラスの中央部がゆっくりと開いていき、中から大きな丸いシルエットが現れた。

 それは、奇妙に歪んだ機械仕掛けの球体であった。
歯車などの金属部品と水晶が組み合わさり、その合間を透明の硝子管が血管のように走る。
その形状はどことなく、人間の心臓を思い起こさせる。


  「な、なんだ、あれは……!?」


 機械仕掛けの巨大な心臓の鉱物とも生物ともつかない異様な姿に、フェリクスは呻いた。
フェリクスの知る<古代技術>の中にも、目の前の物体を示す言葉は見当たらなかった。

 透明の管は機械仕掛けの心臓から身をはがし、ゆらりゆらりと次々に垂れ下がってきた。
おびただしい管の頭がそろって起き上がり、蛇のように鎌首を持ち上げる。

 次の瞬間、管の群れは、フェリクスに向かっていっせいに襲い掛かった。


  「くっ!」


 一本の硝子管がフェリクスを狙って滑空し、その足に取り付いた。
身動きが取れなくなったフェリクスを狙って、他の管が鎌首を向ける。
フェリクスの手に、胴に、次々と透明な管が巻きつき、締めつけ、這い上がっていった。

 胸を締める硝子管が、獲物を狙う蛇のようにゆらゆらと身を起こすと、管先を大きく開いた。
不気味に開いた口が、フェリクスの喉元を狙って鋭く走り出す。


  「!」

  「止めんか――」


 ふと、冷たい声が響き渡った。

 その瞬間、部屋の振動が止まり、上空でざわめいていた無数の管も静止した。
ステンドグラスからの光も、魔法灯の青白い光も、氷のように静止してしまった。
低い唸り声を上げていた歯車たちも押し黙っている。

 耳が痛いほどの静寂と、呼吸も出来ないような緊迫感が、広々とした空間を支配していく。
全ての音と光とを凍りつかせ、響いていくのは、あの冷たい声――。


  「ようこそ、<熾天司教>フェリクス・フェアランド君」


 ステンドグラスの金色の光の下、黒いマントがひるがえった。
黒髪を獅子のようになびかせ、機械仕掛けの歪な心臓を従えるようにして、その人物はいた。
黒い瞳が星々を抱いた深い闇のような光をたたえ、フェリクスとイアンを静かに見下ろす。


  「<皇帝>――」


 フェリクスが低くつぶやいた。
<皇帝>は薄い唇を微かに開き、落ち着いた穏やかな表情で答えた。


  「<娘>が、だいぶ迷惑をかけたようだな?

   君の協力を取り付けるため、つまらぬ約束をしたようだが――。
   そのことについて、君に釈明があるらしい」


 機械仕掛けの心臓から垂れ下がる硝子管の一本が、うなずくように頭を上下させた。
<皇帝>がその頭を撫でると、管はすうっと下りて、フェリクスの上着の裾に噛みついた。

 裾を引っ張られ、フェリクスはひとつの<水晶>の前へと連れて行かれた。

 管はフェリクスの上着を放すと、<水晶>に向かった。
すると<水晶>の滑らかな表面には、音もなく丸い穴が広がった。

 その穴の中へ、管がするりと身を滑り込ませていく。
間もなく、ごうごうと音を立てて、取り付いた硝子管がうねりはじめた。

 透明なその管の内部を、輝く液体が登っていく様子が見える。
<水晶>の中から吸い出された輝く液体は、頭上の歪な心臓へと流れ込んでいく。


 嫌な胸騒ぎがしていた。フェリクスの心臓が恐ろしい音を立てて跳ね上がる。
だが、フェリクスは目の前に起こりつつある、その光景から目を逸らすことは出来なかった。
液体が吸いだされ、<水晶>の内部が晴れていき、中に眠るものの輪郭が徐々に明らかになる。
やがて現れたのは、静かに眠るの美しい娘の姿……。


 フェリクスには、それが誰であるかわからなかった。
何故なら、金色のくせっ毛はあまりにも長く伸びすぎていた。

  ――でも、男の子のように短く切りそろえたら?


 日焼けしていたはずの肌は、薬品で漂白されたかのように真っ白になってしまっていた。

  ――でも、太陽の下、ひと夏、駆け回ったとしたら?


 大人びた顔は十五、六。ちょうど八年前のフェリクスと同じ年頃に見えた。

  ――でも、八年前に時を戻したら?


 瞳は眠るように閉じられていたが……。

  ――開けばきっと、夏の日差しのようにきらきらと煌くに違いない。


 フェリクスの顔が、ぐしゃぐしゃに歪んだ。


  「マリー……」


 低く呻いた。


  「マリー……。ああ! 生きていてくれたんだ!」



 フェリクスの視界が滲んでいく。
だが、<水晶内>の液体が半分ほど吸い出されていくと、フェリクスは我が目を覆った。


  「――!」


 美しく成長したマリーの身体は一部分だけだった。
左肩から斜めに、まるで切り取られたように、左腕と胸部が欠けていた。
その傷口には、小さな水晶がびっしりと生えそろっている。


  「喜んでもらえて光栄だ。幼き日の恋人といったところかな?
   生かしておくのには苦労したが、その甲斐があったというものだ」


  「マリーに――、マリーに、何をしたのです!?」


  「まだわからぬか。
   イアンシルの報告どおり、君は研究をするには、いささか純情に過ぎるな。

   よかろう。紹介する――」


 <皇帝>がさっと手を掲げると、機械仕掛けの心臓が、さらに降下を始めた。
無数の水晶と鉄の歯車とが融合したその表面が、不気味な姿をさらしだす。
鉱物とも、機械とも、生き物ともつかないその歪な姿――。

 その歪な機械の心臓の中央に、硝子管の巻きつく半透明な<水晶球>が輝いていた。
<水晶球>の中には、罪びとのように貼り付けられた、ひとりの女の姿が浮かび上がっている。


  「我が娘、――<ロズマリン>だ」


 不気味に輝きを増していく<水晶球>の中で、<皇女>が呻いていた。

 包帯をとった<皇女>の姿は、恐ろしいものだった。
さらされた胸も、腕も、腹も、明らかに肌の色味が違い、その継ぎ目は不自然に歪んでいた。
腰から下は機械に覆われてわからなかったが、おそらく全身がこのような姿なのだろう。

 機械の心臓から、無数の硝子管がいっせいに降りてきた。
管の群れは次々と周囲に立つ<水晶>へと取り付き、内部に蓄えられた液体を飲み干していく。
明度を増した<水晶>の中に、人々の姿が浮かび上がる。

 男の姿も女の姿もあった。
老人や子供の姿も――。そしてその多くの者が身体の一部を欠いていた。


  「人々の身体を、継ぎはぎしたのですか!」


 こみ上げる吐き気を抑え、フェリクスは鋭く叫んでいた。


  「この魔力を支えるには、強い器が必要だったのだよ」


 答えた<皇帝>の背後で白い火花が散る。<皇女>の身体から白い魔力がほとばしっていた。
その白い魔力の輝きを見るなり、フェリクスの心に冷たいひらめきが走った。

 故郷の<トルーフィールド村>を消滅させた、白い星のあの輝き。
<七つ村>を消滅させた、白い星のあの輝き。
そして、<皇女>と共に流された地下水路の底で見た爆発的な、あの白い光の輝き。

 今、フェリクスの目の前ではぜるこの白い光は紛れもなく、
ふたつの村を消し去った星の光と同じ色合い、同じ輝きであり、そしてそれは水路の底で見た、
あの真っ白な輝きとも同じものだった。


  「この光――。村を襲ったのは、<皇女>自身――!」


  「そうだ、この魔力だよ。

   この魔力に、普通の人間の肉体は持たん。
   適した頭部、適した腕部、適した胸部、適した脚部。
   そういうものの組み合わせが必要となる。細かいパーツまで挙げれば、途方もない数だ。

   君の幼い恋人には左腕を提供していただいている」


  「マリーの……腕……?」


 フェリクスは、白い魔力を体中から噴出させ、苦しげに身悶える<皇女>を呆然と見上げた。
痛みに耐えるように<水晶球>に押し付けられた、その白い、ほっそりとした左腕を――。

 すっと意識が遠のくように感じて、フェリクスは足に力を入れた。
胸が苦しかった。呼吸が、思うようには出来ない。
なにを言われているのか、なにが起きているのか、理解できない。いや、理解したくない……。

 <皇帝>はそんなフェリクスの姿を、夜空を思わせる静かな瞳で見下ろしていた。


  「おかげで、器の方はようやく安定したところだ。

   だがここまでの道のりは長かった。
   器を提供した者、精神を提供した者、魔力を提供した者。
   それぞれ、千人をくだらないだろう。

   満足いく素材をそろえ、<皇女>として育てるのには、十数年も掛かってしまった」


  「そのために村を襲ったのですか?」


  「過疎地の村を襲って何になる? あれは単なる事故だよ――。
   あの光に焼かれた者は身体を腐らせていく。そのままでは三日と生きていけまい。

   君の彼女もそうだ。
   下半身は既に腐り果てていた。その装置にでも入らない限りは生きていけぬ」


 フェリクスは息を呑んだ。胸の奥、焼けるような痛みと共に蘇る、その時の光景――。

§ § § § §

 裾を掴んだ怯えるマリーの、その小さな手を握り、そっと放したあの時――。
村の上空にあった光が輝きを増し、あっという間にフェリクスとマリーを飲み込んだ。


  「きゃああ!」

  「マリーッ!」


 次の瞬間、フェリクスとマリーの身体は突風に巻き上げられ、吹き飛ばされていった。
フェリクスは急な山肌を、石ころのように転げ落ちていく。
天地が回り、体中に鋭い石や枝が当たって、衣服ごと皮膚を切り裂いた。


  「うわあああっ!」


 頭から胸にかけて、なぎ倒された巨木に強く打ちつけ、ようやくフェリクスの身体は止まった。崩れた地面へ投げ出されると、両腕がしなびた草のように、肩のところからだらりと垂れた。


  「うっ……! マ、マリーは……」


 朦朧とする頭を振って、血でぬめる瞼を無理やりこじ開ける。
流れ出る血で赤く濁った視界に、マリーの姿が飛び込んできた。
壊れた人形のように、半身を不自然に折り曲げたマリーの姿が――。


  「!!」


 そして、フェリクスは、意識を失った――。

§ § § § §

 フェリクスは目を大きく見開いた。


  「そうだ……。やはり私は見ていたんだ。あの時の、マリーの姿を……」


 フェリクスは、眠れるマリーを見つめた。
下半身は、あるべき所には無く、代わりに水晶片が静かに輝いている。
あのときの怪我が元で腐り果ててしまったのか、<皇帝>が切除したのか、
それは今のフェリクスには分からない。

 この装置なくしては生きられない――。
<皇帝>の放った言葉が、頭の中で渦巻いていた。


  「提供者の多くは、私が戦場で集めてきたコレクションだ。

   いずれも肉体を損傷し、飢えと屈辱の中、死を待つよりしかたなかった哀れな者たちだ。
   清らかなまま夢の中に生かしてやっていることを感謝して欲しいものだが?」


 淡々と語る<皇帝>の顔は高潔ですらあった。辱めを受けず、苦しみもせず、生き続けられる。それがある種の救いであるのは、事実なのだろう。だが――。

 <皇帝>の傍らで、ふたたび白い火花が散った。
<水晶>に取り付いた管が強く脈打ち、眠れる人々から吸い上げた精神力と魔力とを、
<皇女>の全身へと力強く送り込んでいる。

 注ぎ込まれた魔力は、<皇女>の体内で激しく渦巻き、皮膚の下を輝きながら駆け巡っていた。行き場をなくした魔力が、<皇女>の身体の継ぎ目から白い火柱となって噴出する。
肉体の節目から白い火柱を吹き上げるたび<皇女>は身をよじり、青ざめた顔を苦痛に歪ませた。細い喉は、声にならない悲鳴を搾り続けている。


  「だからって――。

   こんなに――、こんなに、悲しい者を作り上げて!
   あなたはそんなにまでして、<法王庁>と戦いたいのか!」


 途端に<皇帝>の薄い唇の端が持ち上がり、黒い瞳が鋭さを増した。


  「私が<法王庁>の腰抜け集団と――? 笑わせる」


 <皇女>の体から噴出した白い魔力の火の粉が、<皇帝>の表情の変化を眩しく照らした。
それは、<皇帝>が初めて見せる、激しい感情――。強い落胆と、軽蔑であった。


  「だが、君の主張は理解したぞ、フェリクス君。
   私たちは永遠に手を取り合うことは出来ない、とな。

   では、私も好きにさせてもらうとしよう――」


 ステンドグラスの放つ金色の光を背に、黒いマントがたなびいた。
<皇帝>は腰にした大剣を引き抜くと、機械の心臓に向けて、いっきに走らせた。


  『きゃああああああああ!』


 生命とも機械ともつかないそれは、女の悲鳴のようにも聞こえる細い振動音を立てた。
<水晶球>に亀裂が走り、音を立てて砕ける。

 ステンドグラスに描かれた黄金の竜が見下ろす中、
支えをなくした<皇女>の身体が、宙へと投げ出されて、舞うように降りてきた。

 <皇女>の周囲には砕けた<水晶片>が黄金色に煌いて、
その姿はまるで<福音書・写本>に描かれた、天から舞い降りてくる<女神>のようであった。

 フェリクスは駆け出し、<皇女>の身体を受け止めた。頭上からは冷たい声が降り注ぐ。


 「では私は、君の頭を飛び越え、<教皇ヨナタ二世>と直接取引するとしよう。

  よいか、無知なる若者よ。あの老いぼれペテン師に、伝えるがよい。
  貴様ら<法王庁>が言う、この<古代兵器>とやらをくれてやると。

  これと引き換えに、私が要求するのは、ただひとつ――。
<福音書>の正確な複写!

  フェリクス君――。それは君の持つ、記録を写し取る<水晶技術>に任せよう。
  さあ、わかったらその<出来損ない>を連れ、今すぐ<聖都>へ発つがいい!
  それが君の<使命>なのだろう? <熾天司教>よ!」


 きびすを返し、<皇帝>は闇に消えた。


  「殺生を禁じた<法王庁>が、その娘に何をするのかは大いに見ものだがな」

§ § § § §

  「イアン……。マントを貸してくれませんか?」


 フェリクスがイアンの名を呼んだのは、<皇帝>が去って、だいぶたった後だった。
イアンは無言で赤いマントを解くと、フェリクスへと手渡した。
マントを<皇女>の体に掛けて、フェリクスは苦しげに息を継ぐ<皇女>の身をイアンに託した。

 マントの影で、フェリクスの手が魔法剣へと伸ばされ、イアンは咄嗟にその腕を掴んだ。


  「何をする気だ?」

  「私の思うように、させてください。お願いです……!」


 フェリクスの、その優しげな目元が拭いようのない影に覆われていた。
イアンは思わず、フェリクスの腕を放してしまっていた。

 魔法剣を手にするとフェリクスはゆっくりと、マリーの閉じ込められた<水晶>に向かった。
もう一度、<水晶>の中を覗き込む。

 美しく成長したマリーの、その顔を見つめる。

 フェリクスの腕が大きく掲げられ、そして<水晶>へと振り下ろされた。
<水晶>の表面に、魔法剣の切っ先が突き刺さり、無数のヒビが青い稲妻のように走っていく。
フェリクスは剣を逆さに持ち変えると、その重たい柄で、<水晶>を慎重に砕いて取り除いた。

 砕いた<水晶>中へと震える腕を伸ばし、
マリーの軽すぎる身体をそっと抱き起こすと、フェリクスは優しく呼びかけた。


  「マリー……」


 うたたねした幼子を揺り起こすように、マリーを抱きしめる腕を二回、三回と
ゆっくりと上下させながら、穏やかな声で呼びかけ続ける。


  「マリー、わかるかい? 私だよ、フェリクスだ」


 長いまつげが、僅かに震えた。ゆっくりと、ゆっくりと白い瞼が持ち上がる。
思ったとおりの真夏の太陽のようにきらきらした瞳が輝いて、フェリクスの顔を映し出す。
マリーは、フェリクスを見つめて、不思議そうに瞬いた。


  「おはよう、マリー」


 フェリクスは、まだ寝ぼけた様子でこちらを見上げるマリーに、温かいまなざしを向けた。


  「フェリクス?」


 マリーの白かった顔が、見る間に明るい薔薇色へと染まった。


  「フェリクス! 帰ってきてくれたんだ!

   あのね、あたしね。あたしも勉強することにしたの。
   そうしたら一緒に<聖都>に行けるでしょう?

   あ、そうだ!
   それを言おうと思って、あたしあの夜待ってたんだっけ。

   あれえ、いま何時?」


  「そうだったんだ。それであんな村はずれまで迎えに……。
   ありがとう、マリー……」


 フェリクスは、左手にした銀の指輪をはずした。


  「さあ、手を貸してごらん。約束した指輪だよ」


 マリーの残された右手を持ち上げ、そっとはめてやる。


  「わあ! これがほうちょーうおの……。きれー!」

  「また、間違えてるよ、マリー。包丁魚は魚なんだよ。<法王庁>だよ……」

  「あ! そうだったっけ? えへへ……」


 マリーは照れくさそうに笑いながら、フェリクスにはめてもらった指輪を見つめた。
その瞳が、真夏の太陽のように、きらきらと輝いている。


  「ねえ、フェリクス!
   これであたしたち、ずっと一緒なんだよね?」

  「ああ、ずっと一緒だ……」

  「もう離さないでね」


 銀の指輪をした指を見つめてから、マリーはその手でフェリクスの上着の裾を掴んだ。
フェリクスは、そのマリーの手の上にそっと自分の手を重ね、微笑みかけた。


  「うん。もう、絶対に、離さないよ」

  「うれしい……」


 フェリクスの手を握ってマリーは笑った。

 だが、きらきらした瞳はすぐに曇りはじめた。
その瞳がゆっくりと焦点を失っていくのが、フェリクスにもわかった。


  「あれ? なんだかあたし眠くなってきちゃったみたい」


 もう片方の左手で目をこすろうとして、不思議そうに首をかしげる。


  「変だなあ。なんかこっちの手、重いや……」

  「私がふいてあげるよ」


 マリーの両目を優しく撫でてやると、マリーは笑った。


  「もう、くすぐったいよ」


 マリーはくすくすと笑った。
フェリクスに触れられて、おかしくてしかたない、うれしくてしかたない。そんな風であった。

 と、そのふっくらとしたマリーの頬に、冷たい水滴が一粒落ちた。


  「フェリクス……」


 マリーがそっとフェリクスの名を呼んでいた。
フェリクスはマリーを見つめると、優しい目元を細めて、柔らかい微笑を浮かべた。
だが、その瞳はいっぱいの透明な涙に満たされ、それが今にも零れ落ちそうだった。
 マリーは、そのフェリクスの瞳を見つめて、ちいさくうなずいた。


  「これでよかったのよ……」


 静かに響いた、その大人びた声に、フェリクスは息を呑んだ。
マリーは優しく微笑んでいた。穢れない、きらきらした瞳が、じっとフェリクスを見つめる。


  「お願い。
   あたしが眠るまで、手を離さないで……」

  「わかった」


 フェリクスはマリーの手を優しくとると、力強く握った。


  「おやすみ、マリー」

  「うん……」


  ――おやすみなさい、フェリクスおにいちゃん。


 フェリクスに握られた手に頬擦りするようにして、マリーは目を閉じた。
そして、その夏の日差しのようなきらきらした瞳は、もう二度と開かれることはなかった。

 握った手が冷たくなっていく。
抱きしめた肩も……、柔らかく触れる頬も……。徐々に冷たくなっていく。

 フェリクスはきつくマリーの体を抱きしめた。
まるで自分の熱を移すことで、マリーの命をつなぎ止めることが出来るとでもいうように。
冷たく氷のようにマリーの体が冷えきっても、フェリクスはマリーの体を抱きしめ続けた。

 フェリクスの手を固く握りしめていたマリーの手が、力なく落ちていく。
フェリクスの体が震えた。マリーの手を優しく拾い上げ、再び握りしめる。


  「あの男は、マリーが夢の中に生きていると言った!

   でも私は――、私は――っ!」


 震え、泣きむせぶその背を、イアンと<皇女>は静かに見つめていた。

 フェリクスは声を上げて泣いた。後にも先にもこんなことはなかった。
フェリクスの一生で、これほど悲しいことは、もう二度となかったのだ。