Web小説

第四話「終焉」

[p1][p2][p3]

【1】

 朝靄のかかる<帝国・帝都>――。
深く立ち込める靄が、辺りの風景を白く霞ませ、まるで凍れる町のように見せている。

 まもなくフェリクスの視界に、六頭立ての黒塗りの馬車が入ってきた。
フェリクスは傍らに佇む<皇女>を支えるようにして歩かせ、自らも馬車へ乗り込んだ。


  「くっ……」


 隣に座らせた<皇女>が身を折り曲げた。
長く垂らしたヴェールの影で、苦しげに息を継いでいる。


  「大丈夫ですか?」

  「……」


 フェリクスが<皇女>の顔を覗き込む。

 <皇女>は呼吸すること自体が苦痛なように、息を吸うたびに身をねじり、肩を震わせた。
包帯を巻いた手が痛みに耐えるように、座席の敷き布を引き裂かんばかりに握り締める。
<皇女>の背をさすり、脈をはかりながら、フェリクスは顔を曇らせた。


  (無理やりあの機械から切り離されたからなのか……?)


 フェリクスが窓の外に霞む<帝国城>を見やると、朝霧の中からふたつの影が近づいてきた。
メリーとシェリーの姉妹であった。ふたりは思い詰めた様子でフェリクスを見つめた。


  「フェリクス様……。姫様をお連れするのでしょう? 私たちもお供させてください!」


 すると馬車の奥で身を横たえていた<皇女>がそっと首を振った。


  「私は、ふたりから姉を奪いました。これ以上、奪うことは出来ません……。

   大丈夫です。魔力を得てから、器が安定するまで……、時間が……。
   あと……数日もすれば、この身体の継ぎ目も滑らかに……」


  (ローズマリーのことを言っている。
   <皇女>の言うとおりだ。これ以上、誰かを巻き込むわけにはいかない)


 フェリクスは<皇女>に同意のうなずきを送り、姉妹に首を振った。


  「これは<帝国・皇帝陛下>が認めた、<法王庁>の<使命>です。
   大丈夫です。<皇女>のことは私が守ります」

  「フェリクス様……」


 姉妹たちがフェリクスに手を差し出し、握手を求めた。
フェリクスが手を出すと、ふたりはフェリクスの手を両手で包み込むようにして強く握った。
姉妹の手が名残惜しそうに、躊躇いがちに離れていく。フェリクスは御者へと声を張った。


  「<法王庁・聖都>へ――!」


 鞭がしなる音がして、馬がいななく。
風景が流れ始める。窓から顔を出し、<帝都>を振り返れば、姉妹は力強く手を振っていた。


  「フェリクス様! 姫を頼みます! そして、必ず、お戻りください!
   私たちは、いつまでも、いつまでもお待ちしております!」


 互いを支えあうようにして泣き崩れるそのふたりの姿も、やがて白い靄にかき消された。

 フェリクスと<帝国・皇女>を乗せた黒い馬車は、雲の中を突き進む一陣の風のように、
立ち込める靄を切り裂き、力強く馳せていった。

§ § §

 <帝都>から数時間ばかり西に行くとのどかな田園地帯が広がる。
そこを抜け、寂しい山林へ入った頃だった。

 馬たちが何かに驚いたように突然いななき、足取りを乱した。馬車が揺れ、がくりと停止する。


  「どうしたのです!」


 窓から顔を出して見ると、御者の男が真っ青な顔で逃げ出していくところだった。


  「ひいっ! お、お助けを!」


 御者台から這うようにして転げ降りた御者の背後から、ゆっくりと何者かが歩み出てくる。
林から差し込む薄い木漏れ日が、その者の白くのっぺりとした無機質な顔を照らし出した。

 歩み出たのは白い仮面で顔を覆った長身の男――。


  「イアン……。どうして貴方がここに……」


  「同行することにした。

   <法王庁・帝都>までは長旅になる。
   重要な<任務>を持った貴公が、<聖都>に着けなくては困るだろう。

   馬車は俺が駆る」


  「勝手に決めないでください!

   いったい誰からの――、なんのための指示だというのです!?
   <帝国>ですか? <法王庁>ですか?」


  「……」


  「イアンシル。私は、あなたを信じることは出来ない!」


 強く放たれたフェリクスの声は、いつもより一段と低かった。
フェリクスは、いつでも馬車を捨て逃げ出せるよう、<皇女>を背に庇うようにしていた。
一方イアンは、いつでも剣を抜けるよう、利き腕と魔法剣をマントの陰に隠していた。

 <法王庁>と<帝国>と――。
フェリクスとイアンの間。馬車の扉を挟んだ、ほんの数歩のその距離の間で、
ふたつの世界が激しくせめぎあう。

 冷たい風が林を渡り、木々をざわめかせた。
ふわりと膨らんだマントの影からイアンが、そっと利き腕を差し出した。
鞘に収まった魔法剣が、無言のままフェリクスへと差し出される。


  「!?」


 躊躇うフェリクスの髪を、ざわりと冷たい風が撫でつける。
風に舞い散る木の葉の中に混じって、ぽつりとイアンの言葉が落ちてきた。


  「ひとつ、懺悔を聞いてくれるか、<熾天司教>――」

  「……いいでしょう」


 魔法剣を受け取り、フェリクスは小さくうなずいた。


  「以前に話したように、俺は<連合>の士官だった。

   敗戦時、<連合>の主導者たちが、その領地を<神々>に捧げた時――。
   俺たちはまだ、<帝国軍>との戦闘のただ中にあった。

   俺たち前線の兵士は、見捨てられた」


  「そんなことはありません。
   <教皇様>は、<講和条約>の席でも<連合>には罪はないと公言しています」


 冷静に指摘するフェリクスへ、白い仮面が振り返った。


  「だからだ!」


 イアンの感情的な声。その鋭さに驚いたのか、上空で鳥が飛び立つ気配があった。
細い悲しげな鳥たちの鳴き声が、空へ吸い込まれていく。


  「<連合>には罪がない――。
   その裏には、<帝国>に牙を剥いたのは、一部の軍人たちとの認識がある。

   すべては<連合・軍部>の責任。
   <連合>の主導者たちのそんな言い逃れを、<法王庁>は手放しで受け入れた。

   <法王庁>のその無責任な寛大さが、俺の仲間を何人も処刑台に送った!

   フェリクス。おまえの知っているのは所詮、<法王庁>に都合のいい歴史。
   勝者のために捻じ曲げられた、偽りの歴史に過ぎん!」


  「……!」


 叩きつけるようにして言い切られて、フェリクスは身震いした。
目の前にいる男は、あの大戦を体感してきた<連合>の兵士なのである。


  「<連合>に見放され、<帝国・捕虜>となった時……。

   生き残るため、俺が選べる道はただひとつ。
   <皇帝陛下>の忠実なるしもべとなり、<法王庁>に潜り込むことだけだった。

   <法王庁>の信頼を勝ち取るため、俺は二重スパイの提案をした。
   <法王庁>の馬鹿司祭どもは簡単に乗ってきたよ。

   俺は<法王庁>と<帝国>を自由に行き来できるようになった。
   おかげで、実に色々なものが見れた」


  「イアン、あなたは……」


 あなたはいったい何を知っているのです――?
そう尋ねたい気持ちを、何かが引き留めていた。心の中で、何かが軋むような悲鳴をあげている。


  「俺には、身重の妻がいた。

   終戦後、俺の故郷は<法王庁>に併合され<新教区>になっていた。
   俺は、<法王庁>にゆるぎない地位を築くとすぐに彼女を探した。

   彼女と子供の無事を確認すれば、それだけで満足だった。
   二重スパイの俺に、家族など守れんだろうからな。

   ……彼女は、俺の子を身篭っていたことで相当苦労したらしい。

   生まれてくる子供は、<連合・軍人>の子。
   彼女は、我が子を守りきれぬと、自ら命を絶ってしまっていた――」


  「そんな……。<法王庁>は――、助けてくれなかったのですか!?」


 フェリクスの声が驚きに震えていた。


  「……」


 イアンは沈黙をもって答えた。太陽が陰っていく。強さを増した風にざわざわと木々が鳴る。
淡々としたイアンの声が、ひどく遠くで響いているように感じられた。


  「親同士が家柄だけで決めた結婚で、正直、愛を感じたことはない。
   だから彼女にはよすがにする思い出もなく、俺への愛情もなかったろう。

   だがそれでいいと思っていた。
   俺のことなど忘れて、子供とふたり、新しい人生を生きているものと思っていた。

   <法王庁>とて、民間人にまで冷酷ではない。

   誰かが――。思いやりのある誰かが。
   彼女たちに手を差し伸べてくれるだろう。俺は、そう思い込んでいたんだ……」


 イアンの拳がうなりを上げ、大木を殴りつけた。
振り下ろされた拳の震動に、ぱっと木の葉が舞い散っていく。
硬く握り締めたイアンの指の間から、赤々とした血がしたたっていた。


  「何故、俺は、いもしない他人を頼ったのか――!
   何故、俺は、彼女のために何もしてやらなかったのか――!

   愛してやればよかったのだ! 嘘でも――!

   俺が――!
   俺の愛の弱さが! 俺の思いやりのなさが! 彼女を死においやった!

   それが、俺の、拭えぬ罪だ!」


 重い鉛でも吐き出すように、イアンは叫んでいた。


  「<法王庁>と<帝国>と……。
   今を生きる者たちは、世界はふたつあると教えられている」


 白い仮面を取り、イアンはフェリクスへと振り返っていた。
薄い空色の瞳が、熱を帯びたように爛々と輝いていた。


  「だがな、フェリクス。
   世界はふたつなんかじゃない。世界は、ひとつだ!

   己の手に落ちている世界――それが全てだ!
   その手の届かない遠くを見つめるな!

   <教皇>の言う<使命>なんぞに縛られる必要はない。
   まして、<皇女>や<皇帝>の言葉なんぞに、尽くしてやる義理もない。

   お前も、俺のように<法王庁>と<帝国>を利用して、我が道を行け!

   それが生き残った者の、せめてもの<つぐない>!
   そうは思わないか!?」


  「イアン……」


  「今、お前の手には<古代兵器>がある。これを手に、どこへ向かうのか?

   それは<法王庁>や<帝国>に決めさせるべきではない!
   今、どこへ向かうべきか? 今、何をすべきか?

   それは、お前が決めるべきではないのか――?
   そうだろう、フェリクス!」


 血を吐くような叫び。それは、イアンの心からの声だった。痛みを伴う叫び声だった。
その声を聞き、フェリクスの心もまた鋭い痛みを感じている。

 世界をどこに向かって進めるか。それを決めるのは、ほんの一握りの選ばれた者たちだけだ。
その影で簡単に失われていく命がある。多くの者は世界の進む道に、なんの力も持っていない。
抗おうとすら思いつかぬまま巻き込まれ、流され、何もかも奪われて、放り出されてしまうのだ。


  「イアン、君は……。
   君はそのこと私に伝えるために、<帝国・皇帝>を裏切ってきたのですか?」


  「裏切るもなにも、元より、魂まで捧げてはいない。

   <連合・士官>の俺にとって、<帝国>は<法王庁>よりはマシ。
   <皇帝陛下>は、顔も知らぬ<教皇>よりは話がつけやすい。

   ただそれだけだ」


 フェリクスはうなずいた。薄い空色に輝く、イアンの瞳を見つめ返す。


  「それでイアン、ふたつの世界を見てきた君の意見は?」


  「俺は<法王庁>を信じられん。連中も<皇帝陛下>と同じ、支配欲の塊にすぎん。
   <連合・領土>を手土産として持ってきた<連合>の主導者たちを、
   諸手を挙げて迎え入れた連中だからな。

   <皇女>が<古代兵器>だと知れば、何をするかわかったものではない。

   <皇女>の身柄は、<法王庁>も<帝国>も手が出せぬ安全な場所へ隠した方がいい。
   海を越え、大陸へ渡るのがもっとも安全だ」


  「いいえ!」


 それまで苦しげに息を継ぎ、馬車の奥で横たわっていた<皇女>が身を乗り出した。


  「私を<法王庁・教皇>の元へ差し出してください。

   できないと言うのなら、ここで捨ててください。
   あなた方に危害が及ばぬよう、手配もしましょう!

   ですから……!」


 <皇女>はドレスのス裾を握り締め、馬車を降りんばかりの勢いであった。
そのただならぬ様子に、フェリクスは眉を寄せた。


  「しかし、<法王庁>への亡命というのは、嘘なのでしょう?」

  「真実を語っても、あなた方は私を信じられないのではありませんか?」


 フェリクスの顔を<皇女>は見つめている。ヴェール越しに、銀色の瞳が星のように煌く。


  「それは……」

  「残念だが、その通りだ」


 言い淀むフェリクスに代わり、イアンが応じた。


  「俺はあなたが、あなたの意志ではなく、<皇帝陛下>の意志で動いていると思っている。
   作られたあなたが、創造主の意思に逆らえるとは到底思えん」


  「残念ですが……。その誤解を解く手段は、私にはありません……」


  「……俺は<皇帝陛下>や<皇女>の言うとおりに動くのには反対だ。

   フェリクス、今のお前の考えは?」


 イアンに問われ、フェリクスはうなずいた。


  「私は連れて行くつもりです。<皇女>を、<皇女>が望む場所へ」


 クッションに爪を立て痛みに耐えている<皇女>を見つめ、フェリクスが言う。
すると<皇女>が、何かに気づいたように、さっとフェリクスの顔を見上げた。


  「警戒してるのですね、私の力を……。
   そうでしたね。あなたに対しては、その手がありましたね。

   私に蓄えられたこの魔力を解放すれば、
   あなたの故郷の村のように、行く先々の町々を消滅させることも可能です。

   フェリクス様……。
   あなたのご協力は得られるものと……そう、思ってよろしいですね?」


  白い光に焼き尽くされる家々。抉り取られる大地。一瞬で失われる故郷――。

 フェリクスの顔からさっと血の気が引いた。
まるで目の前にその光景があるかのように、フェリクスの瞳が大きく見開かれる。

 蒼白となったフェリクスを覆い隠すように、赤いマントが広がっていった。
素早く馬車の戸を開け放ち、イアンが身を乗り出していた。
同時に一線が煌いて、横たわる<皇女>の喉元に、魔法剣の切っ先が向けられる。


  「その前に殺す……!」

  「できはしません……」

  「女子供を斬れん男に見えるか?」

  「<陛下>に作られた私を、人間に過ぎぬあなたが倒せるとでも?」

  「もとの肉片に戻るまで斬り刻んでやろうか!」


 イアンが吐き捨て、僅かに剣を突き出した。
薄いヴェールが細い音を立て斬り裂かれた。<皇女>の白い顔が露になる。


  「いいか、フェリクス!

   <皇帝陛下>が離れていても<皇女>を操れるのだとしたら――。
   俺たちは、恐ろしく強力な時限爆弾を<法王庁>に運び込むことになる。

   世界大戦のきっかけを作るなど、俺はごめんだ!」


  「そんなことのために、<陛下>が動いておられるとお思いなのですか!?
   あなたは、<陛下>のお側にお仕えしながら、いったい何を見ておられたのです!」


  「やめてください、ふたりとも!」


 フェリクスは、魔法剣を突き出すイアンの腕を抑えた。


  「私も、<皇女>を信じきれない。<法王庁>も<皇帝>もです!」

  「では、何故、こんな化け物の言うことを!」

  「私は、<皇女>が生まれてきた理由を、知りたいのです!」


 フェリクスの一声にイアンは魔法剣を下げた。ゆっくりと視線をめぐらせ<皇女>を見据える。


  「なるほど――。
   確かに、<皇女>さえ作られねば、お前の故郷も<七つ村>も、
   その他、多くの村や町も滅びることはなかったろう。

   何故なんだ? 何故、あなたは生まれてきた?
   嘘でもいい、答えてみてくれないか?」


 僅かな表情の変化も見逃すまいと、空色の瞳は瞬きもせず<皇女>を見据えている。
イアンの鋭い視線を浴び、<皇女>の薄い桜色の唇が、ゆっくりと開かれた。


  「それは……、私が、――と、戦うために……」


 イアンに顔を向けていた<皇女>の頭が、突然、支えを失ったようにがくりと揺れた。
まるで大きな力で押さえつけられているように、<皇女>の身がシートに沈み込んでいく。

 <皇女>はあがき、手を伸ばした。
苦しげに宙を切る包帯を巻いたその指先が、残されたヴェールを引き裂いていく。


  「私は……、――と……。た……たかう……、た……め……!」


 <皇女>の震える唇は、必死に<なにか>を伝えようとする。
だが、その<なにか>を口にした途端、搾り出した声は細くなり、<皇女>の息は止まった。
胸を激しく上下させ、懸命に息を吸い込もうとする。

 イアンが見ていられないというように、眉をひそめ顔を背けた。


  「やはり、<なにか>と戦うために作られたらしいな」


 横になった<皇女>が、震える手をシートに突き、無理やり身を起こそうとした。
裂けたヴェールの合間で、<皇女>のその真っ白な顔がイアンを見上げる。


  「私は、それを知らねばならないのです。
   全ての要素を知った上で、<陛下>に先んじて、最良の行動を起こす必要があるのです。

   しかし、そのためには、あまりにも重大な情報が欠けています。
   <法王庁・教皇ヨナタ二世>が、そうさせてしまっているのです。

   私は、どんな犠牲を払っても、あのお方にお会いして真実を知らねばなりません!」


  「何故なのです?」

  「――世界のためです」


 問いかけたフェリクスに、<皇女>は震える声で答えた。


  「――世界のために。私の、この身は、捧げられているのです。

   信じる信じないはあなたの勝手ですが、
   私のこの身だけの問題なら、私はけして――、
   そう――、けして<陛下>を、裏切ろうとは思わなかったでしょう!」


 それは、あの時と同じ言葉だった。地下水路でイアンに向け放った言葉と。

 あの時と同じ言葉を同じ情熱で繰り返すと、<皇女>は糸が切れた操り人形のように、
再び座席に崩れ落ちた。

 フェリクスは、<皇女>の震える背を手で支え、呼吸を整えさせた。
低い呻き声を上げ、苦しみに耐える<皇女>を見つめ、フェリクスの心は沈んだ。


  (やはり……、操られているのか……)

  「どうする?」


 イアンが低い声でフェリクスの意志を仰ぐ。フェリクスは重い口を開いた。


  「私は……<皇帝>の言葉が気になっているのです。

   <皇帝>は、<皇女>を作ったのは<法王庁>と戦うためではないと言いました。
   そして、<皇女>の身柄は、<福音書>の正確な写しと交換だとも」


 イアンも思い起こしていた。そうまでして<法王庁>と戦いたいのか――。
そうフェリクスが尋ねた時、<帝国・皇帝>が見せた<法王庁>への強い軽蔑を。


  「確かに、あれは、あのお方が敵へ向ける顔ではない――」


  「<皇帝>が、<福音書>に執着しているのは真実ではないかと思います。

   だとすれば、私が<水晶>に<福音書>の記憶を焼き付けない限り、
   <福音書>のある<法王庁・聖都>の安全は守られるはずです」


 そこから先の言葉を、フェリクスは<皇女>に向かって放った。


  「<教皇様>とお会いし、あなたが知りたがっている事柄を尋ねれば、
   <皇帝>の思惑が理解できるでしょう。

   <皇帝>の思惑を知れば、あなたが口にすることが出来ないでいる、
   あなたが生まれた本当の理由もおのずとわかる……。

   それに、あなたとは、<約束>を交わしています。
   あなたの自由と身の安全とは、私が守ると――。

   その言葉は信じていただいて結構です」


 自分を真っ直ぐに見つめる青年の優しげな目元に、<皇女>は僅かに顔を曇らせていた。


  「何故、私を守ろうとするのです……。私はあなたの……」

  「イアン、馬車を頼んでもいいでしょうか?」


 <皇女>の言葉の先をさえぎるように、フェリクスが強い口調で言った。
その様子を観察し、イアンは軽くうなずいて、御者台へと向かった。


  「わかった。フェリクス、おまえの決断に従うとしよう」


 イアンがたてがみを撫で声をかけると、馬たちは力強くいなないた。
馬車は再び走り出す。前方に見える山々の頂には、もう白い雪が降り積もっていた。