その日は唐突にやってきた。
「<客人>をお連れしろ――」
早朝、壁の中央が音もなく開いたかと思うと、黒い甲冑に赤いマントをまとった男が、
背後の者へと指示を出していた。
(魔道師隊の隊長……)
フェリクスは薄明かりの中、男を見上げた。赤いフードに半分覆われ陰になった顔は異様に白い。
よく見ればそれは、繊細な装飾を施した白い仮面であった。
隊長の指示を受け、背後から草色のドレスをまとった若い女性が姿を見せた。
「フェリクス様、こちらへ……。新しいお部屋をご用意しております」
「またどこかへ閉じ込める気なのですか?
お願いです、話を聞いてください! 私は……!」
フェリクスは隊長と女性に向けて、必死に訴えた。
と、女性に歩み寄った次の瞬間、フェリクスの体はひょいと持ち上がり、床の上へと投げ出されていた。
女性がフェリクスを投げ飛ばしたのだとわかるのに、やや時間が必要だった。
ハッとして身を起こそうとすると、薄緑の袖をひるがえし、女性の手がしなやかにうなった。
素早く胸をつかれ、肩口を押さえつけられる。
フェリクスの白い首元には、もう彼女の手で短剣が押し当てられている。
女性のその無駄のない流れるような身のこなしは、まるで優雅な舞のようであった。
「ローズマリー、やめよ」
隊長の声に、ローズマリーと呼ばれた女性は、素早く短剣を下げた。
起き上がったフェリクスは、隊長に向かった。
「私をどうする気なのです!?」
「案ずることはない。貴公の、<客人>としての<お役目>が決まった。
この者たちが新しい<客室>に案内する。おとなしく従うように。
さもなくば、先のようなことに――」
隊長はそれだけ言うと、赤いマントをひるがえして去って行った。
どうぞ、と声をかけられ、フェリクスはローズマリーという名の女性に従った。
その周囲を、どこから現れたのか赤いマントの魔道師隊の一団が固めた。
§ § §
連れてこられたのは、<帝国・帝都>にある館の一室であった。
昼の光が差し込む部屋は明るく、曲線の美しい調度品の上には大輪の薔薇が飾ってある。
足が沈み込む柔らかい絨毯を踏んで、恐る恐る室内へと入っていく。
ローズマリーのてきぱきとした案内で、寝室やバスルームの場所を説明されるうち、
フェリクスは、自分がもうあの独房に戻されることはないのだと理解した。
しばらくはここで暮らさせるつもりらしい。
「身の周りのお世話は、私たちがいたします。
御用の際は、そのベルでお呼びください。では……」
そう言って卓上のベルを指し示し、頭を下げたのは、ローズマリーを筆頭とする三人の娘たちだった。
皆、若草色のドレスに菫色の帯を締め、髪を結い上げている。
三人娘があっさりと出て行ってしまったので、フェリクスは戸惑った。
扉のノブにそっと手を掛けると、鍵が外から閉められているとわかった。
(やはり、自由というわけではないのだな……)
扉がだめならと、窓から外を見る。と、フェリクスは異変に気づいた。
窓は、周囲ぐるりを荘厳な石造りの建造物で囲まれた広大な広場に面していたのだが、
その広場一面を群集がびっしりと埋め尽くしていたのである。
燦々と真夏の陽射しが降り注ぐ中、皆、押し合いながら興奮した様子で、口々に何かを話している。
そのざわめきは広場を取り囲む建物の間で反響し、大きな波音のようだった。
「何か始まるのかな……?」
さして気にすることもなく、フェリクスは広場から建物へと視線を戻した。
今は、現状把握が優先である。逃げ出せるのならそれに越したことはなかった。
フェリクスのいる部屋はどうやら六階建ての建物の最上階のようだった。
残念ながら、足や手をかけられそうな蔦や雨どいはない。
下までロープなどを垂らせばと思い立ち、眼下を見ると、赤いマントがはためいていた。
杖を背負った魔道師三人がこちらを警戒し、窓を見上げている。
(しばらく様子を見て隙を作るか。あるいはあの<紙片>をくれた人物と接触できれば……。
そうだ、内容を確認しておかねば)
フェリクスは隠し持っていた<紙片>を取り出し、光の下で読もうとした。
と、先ほどまで降り注いでいた光が急に陰った。
(雨……?)
<紙片>から外へと目を移すと同時にフェリクスの耳から、急に周囲のざわめきが遠ざかっていった。
何かを警戒するように、人々が息を殺していくのがわかった。
風が止み、太陽さえもが雲を呼び寄せ、陽射しを弱めていく。
広場を埋め尽くす人々が、前の方からいっせいに膝を折り、頭を垂れていく。
その様子は、まるで突風にあおられた葦がしなるようであった。
音が――完全に消え去っていた。耳が痛いほどの静寂が訪れ、時さえも凍りついたようだった。
窓から眼下の様子をうかがっているだけのフェリクスも、その異様な気配に呑まれた。
(なんだ? 何が始まるんだ……?)
と、どこからか放たれた男の冷たい声が、広場全体へと響き渡った。
「帝国の人民諸君――」
(この声は――あの時の!)
その一声を聞くなり、フェリクスの心臓は早鐘を打った。
それは、あの<七つ村>の夜、フェリクスを捕らえよと命じた冷たい声だったのだ。
無音だった空間が、人々の放つ緊張と恐れによって満たされていく。
その空気が、フェリクスの肩にまで重くのしかかってくるようであった。
フェリクスは急に重たくなった頭をめぐらせ、人々が頭を垂れる先を確かめた。
広場前方には白亜の宮殿があり、広場を見下ろすように張り出したバルコニーがあった。
その中央に、その人物はいた。
鉄(くろがね)に黒いマントを羽織って、黒髪を獅子のようにたなびかせた、その人物は。
(あれが、あの人が――、<帝国・皇帝>――!)
フェリクスのいる六階からは、とても顔までは見ることは出来なかった。
しかし、それでも、その人物が放つ、圧倒的な威圧感に気圧されていた。
額から首筋へと、冷や汗が滑り落ちる。
押し黙り息を殺した世界に、<帝国・皇帝>の冷たくよく通る声が、静かに流れ出していく。
「今日は諸君らに、重大な取り決めについて話すため、集ってもらった。
<教皇>の持つ<福音書>によれば、
来年、聖暦728年は、<人類>が文明を得て、ちょうど千年目にあたるらしい。
<法王庁>は、その節目に<神々>を迎える<千年祭>を開催するという。
そこで――。
我が<帝国>もその時期にあわせ、<帝国・千年祭>を開くこととした。
ただし――!」
その声の鋭さに、群集がいっせいにびくりと身を震わせた。
その様子はまるで、雛鳥たちが鷹に追われ、身をすくめるようであった。
フェリクスも人々と同じように身震いし、後ずさっていた。
「ただし、これは<帝国>と<帝国・人民>のさらなる繁栄を祝う祭りである!
<法王庁>の屑どもが捏造した、
いもしない<神々>を祝うためのものでは、けっしてない――!」
(<神々>が<法王庁>の捏造……!?)
フェリクスはぞっとした。<法王庁>を屑と言い捨て、<神々>をいないと断言する。
その力強く放たれた一節には、ゆるぎない意思が感じられた。
「我が<帝国>は、我ら<帝国>らしいやりかたで、
我が祖先が文明を起こした<千年の節目>を祝おうではないか!」
<皇帝>の声が高らかに告げると、人々がいっせいに頭を上げた。
宮殿のバルコニーに向かって、唇を引き結び、真剣なまなざしを送っている。
風が吹き渡り、雲の一角がたちまちに立ち退くと、隠れていた太陽が顔を出して、
<皇帝>へと、白い光のひとすじを投げかけた。
その神々しい光の中で、<皇帝>が大きな剣を天高く差し上げて、凛とした声を張る。
「では、諸君! <帝国人民>のために――!」
「<帝国人民>のために――!」
矢のように放たれた<皇帝の声>に和し、人々もそれぞれの拳を勢いよく空へと突き上げた。
青空に、人々の力強い声が吸い込まれていく。
その一声を発した途端、人々の顔に張り付いていた緊張と動揺が魔法のように解け去り、
こわばった表情は、朗らかな笑顔の混じった驚きのそれへと変わっていった。
「さすがは<陛下>だ。<文明発祥>を祝うのに何も<法王庁>の連中に合わせる必要はない」
「<帝国流>の<千年祭>か――。<法王庁>の祭りには負けられないな」
「なるほど、今度は祭りで戦ってわけか!」
そんな大声がフェリクスの耳へと飛び込んでくる。
談笑する人々の頭上を、鳩の群れが旋回した。
話し声、笑い声、翼の羽ばたく音、風の吹き渡る音……。広場に音が戻っていく。
フェリクスが、去っていく<皇帝>の後姿を目で追うと、<皇帝>その人は僅かに振り返っていた。
太陽がその姿を神々しく照らし出している。
フェリクスは、その一条の光の中に、剣を振り上げ、<連合>の兵士たちを次々と斬り捨てる、
冷徹な戦士の姿が見える気がした。
兵士の頭が吹き飛び、血しぶきが上がる。
その血を頭からかぶり、真っ赤になった戦士の顔が、こちら側へとゆっくりと向けられる。
『次はお前だ――。<法王庁>の操り人形め――!』
ぞっとしてフェリクスは瞬きした。無論、全ては幻に過ぎない。
<皇帝>の剣は血に濡れてはいなかったし、その視線もフェリクスへ向けられたかはわからない。
だが、それはあまりにも生々しい幻だった。
(<神々>は……、<法王庁>が捏造したもの……)
フェリクスは、もう一度、つぶやいていた。
(駄目だ……。<皇帝>は真実、<神々>の存在を信じていないのだ。
あの<皇帝>とは、とても歩み寄れる余地はない……。
<法王庁>に属する私では、とても……)
自分を<客人>として捕らえた人物、<帝国・皇帝>――。
<皇帝>と、フェリクスの所属する<法王庁>との考えには、あまりに深い溝があった。
その<皇帝>が、自分に下す<お役目>とはなんなのか――?
夏の陽射しの中にあるというのに、
フェリクスの身体は冷や水をかぶったように冷たくなっていくのだった。