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「だぁ…あちぃ……」 秋口とはいえ、温暖化の影響からなのか気温は一向に下がろうとしない。 夏は蒸し暑く、冬は必要以上に乾燥して寒い、レンガ造りの殺風景な事務所。 窓はというと、小さな通風孔のようなのが1つあるだけだ。 元々ここは、1階のライブハウスの備品置き場だったから仕方がない。 そんな収容所のような場所を友人から安く借り受け、ソファとベッドなどの 簡単な家具だけを持ち込み、探偵業を始めたのは、ちょうど2年ほど前だった。 以来、決して浮気調査や迷子のネコなどの依頼は受けない、ハードボイルドな 探偵を続けている。 K探偵事務所、弱きを助け、強きを挫く、それが俺のポリシーである。 そう、いくらギャラが良くても、絶対くだらない依頼は引き受けない。 俺が引き受けるのは、知的好奇心を満たすもの、人の為になるものだけだ。 だからこうして暑くても我慢し、ランニング姿にパンツというラフな格好で、 カップ麺が出来上がるのを待っているのだ。 「あと30秒……」 設定した時間は2分30秒。 やや硬めの食感が楽しめるこの時間に賭けていた。 1秒だって越えてなるものか。 これが朝食兼昼食兼夕食、つまり今日はこれ一食。 アラームが鳴ったその瞬間こそ、戦いの幕開けだ。 一瞬で食べつくす! いや、飲みつくす! 「よし、待ってました!」 沸騰したお湯で作った麺はほどよく固く、具もほぐれている。 既に割っておいた割り箸で手早く二周ほどスープを混ぜ、 返す手で乳白色のスープの油に光る喉越しの良さそうな麺をすくい、 そのまま外気に麺が冷える前にすする——! ちょうどその瞬間だった、事務所のドアが勢いよく開いたのは。 「キャ〜♪ いやぁん、なんてハレンチな格好なの〜!」 「ゴフッ!」 思わず麺が気管に入ってしまった。 「んもう、いくら素敵なボディだからって、そんなに見せびらかすものじゃ ないわよ♪」 ドアの前に立っていたのは、稲垣シュンイチ。 ライブハウス『ディープシー』、この建物のオーナである。ゴツイ男だ。 「い、稲垣さん……」 むせて咳き込む俺を、にこにこしながら見つめている。 稲垣さんは、たまにこうして足音を忍ばせ、部屋に突入してくる。 彼に言わせると『餓死しているかもしれないから心配』とのことらしいのだが、 この前など昼寝していてふと目を覚ましたら、 熱い瞳で覗き込んでいる彼の顔があったし、 たまに差し入れを持ってくる時は必ずと言っていいほど 俺が風呂上りで部屋でくつろいでいる時だ。 この人、実は分かってやっているんじゃないか、と不安になる時がある。 「だからさ〜、前から言っているけど、ノックはしてよ……」 「あらっ、私と鏡君の仲でそんな堅苦しいことは必要ないでしょ?」 そういわれると反論することができない。 稲垣さんは俺の収入が乏しいことを知っているから、家賃が数日遅れても 催促せずにずっと待ってくれている。 本当に感謝しているし、これほど信頼できる人はそうそういないだろう。 ただ、彼の心配の中には別のニュアンスが含まれているのを感じて仕方がない。 時々本気でヤバイ、と俺の中のアラームが鳴ることすらあるのだが……。 とはいえ、可能性はかなり低いのでそれなりに安心である。 彼にはしっかりと本命の相手がいるのだ。 しかし、本人には悪いが、想いが実る可能性は皆無だと思われる。 「それはそうと、何の用?」 「あらら〜ん、そんな言い方しちゃっていいわけ?」 そう言ってデカイ図体をどけると、その後ろに男性が1人立っていた。 「うふっ♪ お客さんを連れて来てあげたわよ。どうぞ、こちらへ」 俺は男に椅子を勧めると、すぐに近くに転がっていたパーカーを羽織った。 「見苦しいとこ見せちゃってすいませんね……」 「私はコーヒーでも持ってきましょうかね♪」 稲垣さんは軽やかな足取りで部屋から出て行った。 椅子に座った依頼者の身なりを、それとなく確認する。 歳は20代後半。色白で細身、髪は黒髪のショートカットだ。 高級そうな黒のジャケットに身を包み、つけている時計はブランド物。 俺の第一印象は、IT関連の実業家もしくは実家が裕福なボンボン。 過去の経験から、恋人の素行調査か、もしくは取引先会社の経営状態の調査 といったようなものだろう。 少し緊張したような表情から、もしかしたら強請などの問題を抱えているかも しれない。まあどっちにしても、たいした依頼ではなさそうだ。 「それでどのような御依頼でしょうか?」 「……それが、ちょっと説明しづらいんですが」 ピンっときた。女性関係だろう。 「はい、なんでしょうか」 ため息が出るのを我慢して、そう尋ねた。 浮気調査に身辺調査、まったく興味の無い話だからだ。 うまく言って、引き取っていただこう。 だけど男が言ったのは、奇妙な話だった。 「あの…そのですね、ネット上から消えた人間を探して欲しいんです」 「はぁ? ネット? 消えた?」 思い出した。 「ああ、もしかして昨日メールで送ってきた……」 何でも行方不明の2人を探して欲しい、という内容のものだったが、 イタズラだと思い、本気にしていなかった。 「はい、私のネット友達とでもいえばいいんでしょうか、 仲が良かった2人の行方を探して欲しいんです」 * * * 誰も居なくなった事務所で、今回の依頼について考えていた。 依頼者の名前は『高倉 秀二』 そして彼の依頼というのは、如月BBSで知り合った『P』と『桃色』 というハンドルネームの人物を探して欲しいとのことだった。 『ひとつだけ訊いてもいいですか? その2人とはネットだけの知り合いで、お互い顔も知らない者同士のはず。 なぜそこまでして探したいのですか?』 それはそうだろう。 いくら俺のギャラが他の所と比べ安いとは言っても、 経費を含め、1日に3、4万は要求する。 金の有り余った、ただの物好きな男なのかもしれないが、 彼の動機について知りたかった。 そう、俺はそういった事に、こだわるのだ。 もし理由がくだらないものなら、いくらギャラが高くても断る。 だが、彼は違った。 『友達だった、ということだけでは不十分でしょうか?』 少しムっとしたような表情でそう答え、彼は言葉を続けた。 『私はこれまで仕事一筋でした。 大学の頃に立ち上げた会社を、ひたすら大きくすることだけを考え、 いろいろなライバルを蹴落とし、人と見れば敵か利用できる手駒としか 見ていなかった。そのおかげで会社は大きく成長を遂げましたが、 気がつけば、友達というものが誰一人として居ないという 状態になっていたんです』 友達という言葉に、稲垣さんの顔がふと思い浮かび、慌てて頭を振る。 純粋な、という意味では多分彼は違う。 その奇妙な俺の行動を見て、依頼人の男は怪訝な表情を浮かべた。 『ああ、気にしないで。こっちのことですから……。 それでネットで知り合った、その…『P』さんや『桃色』さんとは 友達といえる間柄だった、と』 『はい、如月BBS以外にも、別の所でチャットをしたりして、 いろいろな悩みなども言い合える仲でした。 年齢や住所などは話さない暗黙の了解の中でしたが、 御互いに時間を忘れ、理想や夢なども語り合いました。 自分をあれほどさらけ出すなんて、親に対してもなかったことです。 その彼らが、ネットに姿を見せなくなって数日……。 それだけなら問題ないんですが、姿を消す前に書き込んでいる内容が、 何か犯罪に巻き込まれたような感じで……』 * * * 如月BBS、行方不明になった者達……。 確かに最近、この街では不気味な事件が多い。 集団自殺事件や動物の大量虐殺など、警察内部のリーク情報からも、 その異常性を感じる。 「お邪魔しま〜す。美味しいコーヒー持ってきたわよ〜!」 何かが思い出せそうな気がしたその時、稲垣さんが入ってきた。 「あ、あら……鏡君1人?」 彼はそう言って、部屋の中を見渡した。 「も〜、また今回も蹴っちゃったのね!?」 「いや、受けたよ」 旨そうなコーヒーの匂いが漂ってくる。 稲垣さんが手にしたトレイからコーヒーを受け取った。 「……って、稲垣さん来るの遅すぎるんじゃない?」 頬を大きく膨らませて、俺のカップを取り上げようとする。 「コーヒーはね、愛情をもってゆっくり入れてあげないと美味しくないの。 たぁ〜っぷり注ぎ込んでいたから、それなりに時間も掛かっちゃうのよ」 「ああ、そうそう! 稲垣さんのだ〜い好きなケーキ屋の店長が そう言っていたんだよね、ご馳走さまです♪」 顔を赤らめた彼の手から、コーヒーを取り返した。 「ふふ、どうしたの鏡君? 何だか嬉しそうじゃない」 意識したつもりはなかったのだが、気づけば顔が緩んでいたようだ。 「いや、久しぶりにやりがいのある依頼かなってさ」 「あら、んふふ♪ やる気満々って感じね。 それでどう? コーヒーのお味は?」 「人を選ぶ味。香りはいいけど、少し苦いかな……」 ちょうどその時、一人の女性の顔が思い浮かんだ。 野崎ミカ、学生にして一流の報道記者。 真面目で仕事熱心だけど、ある意味、トラブルメーカーだ。 さっき、頭に浮かびかけたのが、彼女のことだった。 ほろ苦いコーヒーを、グイっと飲み干した。 「よ〜し、それじゃ、調査開始といきますか!」 |
To be continued
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