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俺は蛇口から流れ出す水をじっと眺めていた。 「鏡君、どうしたの? 顔が真っ青じゃない!?」 俺はゆっくりと顔を上げた。 洗面台の鏡には、心配げな表情を浮かべる稲垣さんが映っていた。 「頭が痛いんだ……」 そう答える自分の声が、どこか遠くから聞こえてくるような感じだった。 血の気の失せた自分の顔が、こちらをぼんやりと眺めている。 何歳も老け込んだような顔だ。 現実感が完全に失せ、自分の思考がコントロールできない。 その状態は事務所に帰ってから、ずっと続いていた。 髭剃り用の剃刀に焦点が合った。 鈍い光を放つ刃が、心に忍び込んでくる。 刃にこびりついた黒い血 皮膚に刻まれた傷 切り口から見える真っ赤な肉 筋肉をスパッと切り裂き そこから噴水のように血が吹き出す…… くそっ、反吐が出そうな連想が次から次に襲ってくる。 「鏡君、なにかあったの?」 俺は剃刀から目を逸らして、勢いよく流れ出ている水を止めた。 「風邪でもひいたのかも……」 一度大きく息を吐き出して、洗面台から離れた。 出来る限り平静を装いながら、稲垣さんの横を通り抜けた。 「何か温かい物でも持ってきてあげようか?」 「いや、大丈夫……」 稲垣さんと目を合わせずに、そう答えた。 「…………」 彼の気遣いを痛いほど感じたが、どうすることも出来ない。 彼の存在が、無性に疎ましく感じる。 恐るべき思いに駆られてしまうのに必死で耐えていた。 出来る限り、尖った物や重量感のある物を見ないようにして、部屋を横切った。 誰もそばに居て欲しくない。自分さえも遠ざけたい。 ソファに横になった。 合成皮の生ぬるい感触に、さらに気分が滅入ってくる。 「少し眠ったら治ると思う……」 不機嫌そうに呟く俺の声が聞こえる。 俺が悪い、と言うことはわかっていた。 だがその言葉を口に出すのが精一杯だった。 それほど追い詰められていた。 数秒ほど無音の状態が続いた後、稲垣さんの足音が入り口に向かっていった。 電灯が消されるスイッチ音と、闇の訪れ……。 ドアが静かに閉じられた。 * * * 理由無き破壊の衝動。 俺の頭はどうなっちまったんだ。 別のものに意識を持っていこうとするが、何かに追われているような焦燥感が 心を掻き乱し、それを許さない。 気がつくと、気味の悪い映像が浮かんでくる。 目をつぶって、必死で美しい記憶を探し出そうとする。 両親の笑顔や初恋の思い出……。 学生の頃の楽しい出来事や、この街の心温まる日々の数々……。 だがなぜか、色褪せた他人の写真のように感じてしまう。 その光景にあったはずの輝ける印象が消え去っている。 無数の黒い虫が、心を食い尽くしていく ズブズブと肉を食い破り、 黒い虫が這い出し、蠢いている 俺は飛び起きた。 漆黒の闇の中、必死で電灯のスイッチを探す。 時間感覚がおかしくなっている。 闇に包まれた部屋が、奇妙なぐらい広く感じ、焦りと恐怖を覚えた。 よろめく足取りで探し回り、ようやくスイッチの場所に辿り着いた。 蛍光灯の無機質な白い光が、事務所内を照らし出した。 口の中が渇き、首筋に脂汗が滲み出ていた。 頭が割れるように痛む。 もう眠ることはできない。 闇が恐ろしかった。どうしても死を連想してしまう。 自分が土に埋められ、消え行く意識の中で、もがき苦しんでいる。 いくら叫んでも誰にも届かない。 何もかもが闇に呑み込まれ、無に帰してしまう。 そんなものは妄想だとわかっている。 だが、闇は実質的な力をもって心を侵食していた。 そして最後に俺の精神は、狂気という忘却の彼方で死を迎えるだろう。 気味の悪い虫食いだらけの心 醜く削られ小さくなっていく 蝕まれた心は、空っぽな闇に吸い込まれていく 俺はかぶりを振った。 何かの本で読んだことがある。 悪魔は心の隙間に忍び込んでくると。 その悪魔は、俺の精神を狂わし、破滅を願っている。 呪術、魔法、妖術、何かはわからない……。 だが俺の頭は正常なはずだ。 奴が、すべての原因だと俺の心は告げている。 グレアム・ミラーと名乗ったあの男。 奴と俺の症状には、立証できる因果関係など無い。 これが精神崩壊への一歩というなら、それでいいだろう。 しかしこれだけは確かだ。 一刻も早く三杉ナオの行方を捜し出し、事実を明るみにする。 俺の死か奴の破滅か……。 ドアのノブを握り締めた。 もう何も迷いはない。 俺は決着をつけるべく、夜の闇の中へと飛び出していった。 * * * 夜の11時。 人の気配がまったく無い4区を、当て所も無く歩いていた。 意識が朦朧とし、泥酔した男のように足がもつれている。 俺は祈りの言葉を思い出していた。 なんでもいい。 今の俺には何かすがるものが必要だった これまで神仏に頼ることなどしなかった。 だが闇の存在があるなら、光もあるはずだ。 たった一つの願いを聞いて欲しい。 あとしばらくでいいから、俺の正気を保つのを手伝ってくれ。 三杉ナオを捜し出さなければならないことはわかっているが、 具体的に何をすればいい? 俺は答えを見出せずに、ひたすら夜の闇の中を歩き続けていた。 人込みに行くことだけは避けたかった。 強迫観念から自分が、何を仕出かすのかわからないからだ。 人を傷つけて逮捕される結末だけは迎えたくない。 俺はポケットの中の携帯電話を握り締めていた。 数人の顔が浮かんでは消える。 稲垣さんに始まり、野崎ミカ、山瀬警部、大倉ユウジ……。 彼らなら俺に代わって捜査を続けてくれるだろう。 ……みんなお人よしだからな。 心配して助けに来るのは間違いない。 だからこそ連絡を取りたくなかった。 彼らの親切に、自分が応える自信が無いからだ。 全身に悪寒が走って、歩くのさえ思い通りにならない。 激しい脱力感が襲ってきて、その場に倒れ込んだ。 頬に触れるコンクリートの冷たさが気持ちよかった。 濃紺の夜空には、美しい満月が輝いている。 青白い光に満ちた光景の中で、俺は死を意識した。 『アナタハ ダレ?』 頭の中で何者かが呟いた。 ……はは、ついに幻聴が訪れたようだ。 俺は間抜けな探偵さ。 誰一人救うこともできない、情けない男だよ。 『ココデ ナニシテイルノ?』 何もしていない、何もできないから困っている。 俺の答えに応じるように、闇の中から小さな影が浮かび上がった。 影は美しい猫のフォルムへと成長し、俺にゆっくりと近づいてくる。 目の錯覚ではない。 明らかに猫は、俺に興味を持っていた。 だか餌も持っていない、ぶっ倒れた男に猫が関心を持つことなどあるのか? しかも…さっき聞こえた声はなんだ……? 目の前の猫は美しかった。 しなやかな身体のラインは気品に満ち、特に知性を感じさせる緑の瞳に 俺は魅了されていた。 だがすべて、虚ろな意識が生み出した幻覚だろう。 なぜなら彼女が、自分の右側を決して見せないようにしていることが、 怪我をした部分を知られたくないという理由だと、一瞬で理解できたからだ。 猫の気持ちが理解できるなど、幻覚という答え以外に考えられない。 『イジメラレタノ?』 俺の心に直接語りかけてきたその言葉には、胸が痛むほどの思いやりと 憐憫の情に満ちていた。 |
To be continued
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