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俺は蠱にかかったように身動きできずにいた。 月光を浴びて立つネコは、神秘的なまでに美しく、この世のものでない。 均整のとれた身体は、月光の霊気をまとって艶やかに光り、 細く柔らかそうな白とグレイの毛が夜気になびいている。 緑色の瞳はそれ自体が、光を発しているかのように見る者の心を揺さぶる。 心配げに首を傾げ、俺を眺めている動作一つとっても、その可憐さに空気が 震えるようだ。くたばりかけの俺の心が生み出した幻影でなければ、 満月の妖艶な光が呼び寄せた精霊だろう。 『ドウシタノ?』 ミント? ふいに頭に浮かんだ言葉がそれだった。 俺の思考に反応するように、ネコの瞳が優しげな光を帯びた。 『ソウヨ ダイジョウブ?』 大丈夫、心配しないでくれ。 ちょっと疲れて休んでいるだけだ。 少しの間ここで寝ていたら、きっと元気も出てくるはずだ。 俺はそう心の中で呟き、微笑んだ。 身体は悪寒で震え、酩酊状態のように思考も定まらない人間が言うセリフじゃ ないことはわかっている。 だけど辛い時には笑ったほうがいい。 いくらやせ我慢だと言われようと、それが俺の生き方だった。 『ヤサシイ ヒト』 優しくなんてない、ただバカなだけさ。 だから気にしないで立ち去ってくれ。 ミントの瞳に悲しげな色が浮かんだ。 そして彼女は、静かに俺に顔を近づけてきた。 『モウ ダイジョウブ』 ミントは俺の頬を優しく舐め始めた。 くすぐったさに目を閉じる。 俺は驚きと同時に、安らぎに似た心地良さを感じた。 まるで子ネコになったような気分だった。 彼女が俺を力づけるためにそうしていることはわかっていた。 不思議なことに、少し前から強迫観念や激しい頭痛も和らいでいた。 身体全体に砂が詰まっているような疲労感は残っていたが、終わりの見えない 苦しみにあれほど悩まされていたのが嘘のようだ。 だが闇の存在が、完全には立ち去っていないことは知っている。 闇は死の鉤爪をもって、すぐそばで目を光らせている。 隙を見せれば再び襲い掛かってくるだろう。 死からは逃れようがない、それは確信めいたものがあった。 だからこそ、この心穏やかな瞬間を大切にしたかった。 あと少しだけでいい、前に進める勇気と力を与えて欲しい。 頭の中に涼やかな旋律が聞こえてきた。 眠りなさい、と誰かが歌を口ずさんでいるような気がした。 良く知った声であり、思い出せそうだが思い出せない、どこか懐かしさを 感じる旋律だった。 瞼の向こうの光が眩いのは、自分が泣いているからだと気がついた。 如月の街の風景が、光の奔流となって次々に甦ってくる。 この街の駅に降り立った時、なぜか心躍る気持ちになったのを覚えている。 何か素晴らしい出来事が待ち受けているに違いない。 俺はこの街に出会うため、ずっと旅してきたんだ。 そう確信し、その予感は正しかった。 数多くの心温まる風景と巡り合い、俺はこの街のために、人生のすべてを 賭けようと思った。 大切なこの街のために生き、死んでいきたい、と。 この歌声は、以前から良く知っていたものだと思い出した。 なにげなく街を歩いている時や、親しい友人と笑い合っている時、 決して耳には聞こえないが、声無き声が奏でていたものだと気づいた。 街の歌う声だった。 誰の助けも要らないと強がっていたが、自分のことを心配してくれる存在と いうものが、こんなにも心を熱くするものだと初めて知った。 遠ざかる意識の中で、もう一つわかったことがあった。 それはミントというこのネコが、限りない優しさと強さを持っているのは、 今の俺と同じように、この歌をどこかで聴いたからだ。 もう俺は負けることはない。 力の根源が、この街であり、すべての人や動物たちのつながりであるなら 何も恐れるものは無いのだ、味方はあらゆる場所にいるのだから。 深い安らぎの訪れとともに、俺は眠りに落ちた。 * * * どれほど眠っただろうか……。 目覚めた時には、すでにミントの姿はなかった。 携帯を見て驚いた。5時を過ぎている、夜明け前だった。 6時間近くも寝ていたことになる。 意識がはっきりしてくると同時に、闇が忍び寄ってきた。 不安と恐怖が心にこびりついて、心を急速に蝕んでいくのがわかった。 すべてを腐食させ、生きているのさえ無意味に思わせる力を持っていた。 だが、以前とは違う。 月光の下の出来事が、俺の心に力を与えていた。 それもタイムリミットがあることはわかっている。 しかし、あと少しは持ちこたえることはできるはずだ。 俺は、よろめく足取りで、立ち上がった。 戦闘開始だ。 俺はS県に向かうべく、駅へと歩いて行った。 |
To be continued
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